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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

若草山北西麓より・・・

万葉集 大和のこと 歴史のこと

三笠山」と言えば誰もが百人一首

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

阿倍仲麻呂

を想起するだろう。ここでの「三笠山」は春日大社の東に聳え、その神の宿る山として知られる御蓋山みかさやまをさすが、実は奈良にはもう一つの「三笠山」がある。春日山の北に連なる若草山である。事実、山焼きで知られるこの山の頂には「三笠山」と記された三等三角点が立っている。

なぜ、かくも近隣の地に同じ名の山が二つもあるのか、ことの子細を語ることはここで言いたいことではない。とにかく私はこの「三笠山」の一つ、若草山の北側の斜面に立っていた。住所で言えば・・・奈良市川上町623。検索をかければすぐにお分かりになると思うが、奈良墓地公園三笠霊苑の所在地である。

なぜ・・・墓地などに?

この墓地に私の知っている方の墓はない。

[caption id="attachment_7691" align="alignnone" width="300"]Hisilicon K3 三笠霊苑より西方を見渡す。[/caption]

中央の平たい頂を持つ山が生駒山である。

君があたり 見つつも居らむ 生駒山 雲なたなびき 雨は降るとも

万葉集巻十二・3032

そして・・・ちょいと南の方に目を向けると、

[caption id="attachment_7692" align="alignnone" width="300"]Hisilicon K3 三笠霊苑より南西を見る[/caption]

ちょいと雲に隠れているが中央部やや下方に葛城・混合の連山が見える。そして・・・本当に小さくではあるが、その下に興福寺五重塔が見える。

素晴らしい・・・まことに素晴らしい眺望である。

けれどもも私がこの場所に立っているのはこの眺望を見るためではない。

[caption id="attachment_7693" align="alignnone" width="300"]Hisilicon K3 伴墓[/caption]

伴墓と呼ばれるこの墓石群は東大寺墓所

[caption id="attachment_7694" align="alignnone" width="214"]Hisilicon K3 重源の墓[/caption]

この五輪は東大寺の高僧、重源のもの。重源は東大寺大勧進職として、平家の南都焼き討ちの際に焼失した東大寺の復興を果たした・・・いわば東大寺復興の祖である。鎌倉時代前期の作で花崗岩製、高さは174cm。重要文化財に指定されている。通常の五輪塔とは違い、火輪が四角錐ではなく三角錐になっているのにお気づきだろうか?

元は東大寺俊乗堂の辺りにあったものを元禄16年(1703)にこの場所に移したのだそうだ。

けれども・・・私がこの場所になっている理由は、この墓石群を見るためでもない。

それならばなぜ私はここに立つのか・・・?

伴墓・・・という言葉にピンと来たならば、おそらくあなたのその直感は正しい。たぶん玉村の源さんあたりは「はは~ん」ときているのではないか・・・いや、源さんならば、おそらくすでにご存じである可能性は高い・・・

この墓石群を伴墓と呼ぶのは、この辺りにかつて伴寺と呼ばれる寺院が存在していたことに由来するが、この伴寺について、川口常孝氏の「大伴家持-『佐保の宅』考」(古代文学会編『シリーズ・古代の文学1 万葉の歌人たち』武蔵野書院)によって説明してみたい。

伴寺については、東大寺要録や大和志に、次のような記載が見られる。

永隆寺 字伴寺 右寺 大伴安麿大納言之建立也 飯高天皇代 養老二年 奈良坂東阿古屋谷 立永隆寺 同五年辛酉三月廿三日 奈良坂東谷 般若山之佐保河東山改遷立之

東大寺要録

廃鞆寺 在川上村上方 要録云永隆寺一名伴寺 大納言大伴安麻呂

大和志

前者によれば、伴寺は正式には永隆寺と呼ばれ、養老二年(718)、大伴安麿によって奈良坂の東、阿古屋谷に建てられ、同五年(721)3月23三日に般若山の佐保川の東の山(川上町東方すなわち若草山北西麓)に移された。が、続日本紀には大伴安麿は和銅七年(714)に世を去ったとあるから、それから4年後の養老2年にこの寺が建てられたということと矛盾が生じる。その矛盾を解消しようとすれば、大伴安麿が和銅7年より前にこの寺の建立を発願したか、和銅7年以前にこの寺を某地に建て、養老2年に阿古屋谷に移し建てたと見るより外はない。

このように考えると・・・伴寺の起源は、まあ、今一つはっきりしないところがあるが、この地に古代豪族大伴氏とかなり関係の強い寺院があったことは認められよう。さすれば、後に東大寺の僧侶の墓所となったこの地は、かつて、大伴一族の人々の御霊が祀られる大伴氏の墓所であったことも充分に考えうる。大伴氏代々の遺骨がここに収められた可能性が・・・あるのだ。

大伴旅人の遺骨が、大伴坂上郎女の遺骨がこの地に・・・私の足の下に眠っているかもしれないのだ。あるいは藤原種継暗殺事件にかかわったされ死後に「遺骨配流」の非運を余儀なくされた大伴家持の遺骨が、21年後の名誉回復に伴ってこの地に改葬されたかもしれない。

大伴氏ゆかりの寺・・・氏寺をそのまま氏の墓所ときめてかかることには問題があるとは思うが、伴墓という呼称が、そこが大伴家の墓所であったという伝えを裏づけているように思う。仮にそうでなかったとしても・・・旅人、家持、坂上郎女たちが、この地において祖先の御霊を弔うべく、この地に額づいたことはたしかであろう・・・と思う。

以上・・・川口氏の御説に従い、伴墓が古代豪族大伴氏の墓所である可能性が高いことを述べた・・・あくまで可能性であるが・・・

ならば・・・曲がりなりにも学生のころ万葉集を学んだ私がここに立ち、そしてこの地にて御仏に、祖先のみ霊に額づいていた万葉歌人たちの姿に思いを馳せていたとしても何の不思議もないではないか・・・

都祁の春

大和のこと

私の職場がある奈良県奈良市都祁つげの里は、その大半が標高400m以上という高地である。特に私の職場に至っては標高500mになりなんとする地点にある。私が居住する三輪の標高が80mほどであるから私は毎日400mほどの標高差を上ったり下りたりしていることになる。

したがってその気候は、大和盆地のそれよりも冷涼で春の訪れもしばし遅れる。例えば桜・・・

大和の盆地においてはソメイヨシノの盛りは先週のはじめごろで、半ばの冷たい雨にすっかりと花を散らせてしまった。

・・・が、都祁の地では・・・

[caption id="attachment_7686" align="alignnone" width="300"]都祁の桜 都祁の桜[/caption]

上はわが職場の裏庭のソメイヨシノである。昨日の昼に取った。例によっての写真のまずさのため、しかとは判断できぬがようやくの「散り始め」といった風情であった。今日は北風が強く雪のように花弁が舞っていた・・・

車をほんの30分ほど走らせただけであるのに、季節の進みがかなり遅れている。朝方が冷えた昨日の朝などは氷が張っていたぐらいである。だから・・・その冷涼な気候を生かし、古代においては氷室(既述)の置かれるべき地とされていたのだ。

[caption id="attachment_7685" align="alignnone" width="300"]復元氷室 復元氷室[/caption]

写真はわが職場の北に広がる丘陵の反対側の斜面・・・つまり北向きの斜面に設置された復元氷室。 平成11年1月に復元されたもので、例年は2月11日の建国記念日に氷を収め、7月の第3月曜日、海の日に取り出すのだそうだ。その氷を取り出す日には、近所の氷室神社の宮司による神事の後、参加者が順に氷室の中へ入り、残った氷を見学し、その後、氷の取り出しが行われるのだそうだ。氷室に保存される氷は3トン。それが取り出すときには1.2トン前後になっているのだそうな・・・

そして最後に・・・一枚。

[caption id="attachment_7688" align="alignnone" width="300"]西念寺 西念寺[/caption]

これまた職場の北の丘陵の北側の斜面にある・・・西念寺という小さなお寺である。こぢんまりとしたつくりではあるが、その藁ぶき屋根が醸すひなびた雰囲気は・・・ちょいと他には味わえない味わいがある。

手前の枝垂れ桜も見事ではあるが・・・私などはこんなお寺の屋根を見るとつい・・・こんな曲を思い出してしまう。

https://youtu.be/h-tzgdUJ1pQ

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お散歩4・9

大和のこと

ちょいと更新が間遠になっている。書こうと思っているネタがないことはないのだが、ちょいと骨が折れそうなので、手を付けることに躊躇しているからだ。かといって・・・あんまり間を開けてしまったのでは、私のようなもののブログは忘れ去られてしまう恐れがある。そこで、今回はちょいとお気楽に、お散歩の途中に目にしたもの等々・・・

大美和展望台

私のブログには何度か登場している大美和展望台である。大和盆地の桜は先日の大風でかなり花びらを落としてしまったが、それはソメイヨシノのことで、それよりもやや開花時期の遅い個々の枝垂れ桜たちはまだしっかりとその美を保っている。あと・・・2~3日は春を楽しめるのではないだろうか。

大美和展望台から見た大和三山

続いては展望台から見た大和盆地の南半分。葛城山・金剛山を背景に大和三山がぽっかりと浮かんでいる。秋などはこの盆地がすっぽりと霧・・・少し高いところから見下ろすとまるで雲海に覆われたような光景を見せてくれる朝がある。そんな日などは、この三つの山がその海に浮かんだ小島のように見える。

そしてその場で振り返ると・・・

大美和展望台から見た三輪山

三輪のお山である。幾分暗く、お山の背景がまぶしく見えるのは少々早い時間帯であったからである。今日は土曜日で私はお休みなのであるが、愚息たちが仕事があるというのでお付き合いして早起きしたものの、食後時間が空いてしまい手持無沙汰だったのでお散歩へと出かけたのだ。

それから私は大神神社へ・・・

春の大神祭 祭具

ちょいと珍しいものがあった。まあ、神社なのだから、おみこしぐらいがあっても何の不思議があるわけではない。ではなぜ・・・「珍しいもの」などと書いたのか・・・

上の写真をクリックして写真を拡大していただきたい。神輿の中央に取り付けられた赤い鳥居には札には「若宮社」とある。ここは大神神社の拝殿前。なぜ、ここから離れた場所にある若宮のお神輿があるのか・・・詳細は大神神社のHPにある。

第十代崇神(すじん)天皇の御代に疫病が大流行し多くの国民が亡くなるという国難が起こった時、ご祭神の神示により神孫の大直禰子命(おおたたねこのみこと)を神主としてご祭神を篤くお祀りし直したところ、平安が戻って国が富み栄えました。このことが大神祭の起源で・・・祭典は8日の宵宮祭、9日の大神祭、10日の後宴祭と三日間にわたり、「例祭」と呼ばれる大神神社で最も大切な祭典です。神孫の大直禰子命(若宮様)を神主としてお迎えした故事に則り、8日午前に大直禰子神社(若宮社)で例祭を行い、御分霊(ごぶんれい)を若宮社から本社にお遷しすることから祭儀が始まります。

昨日が宵宮にあたる日であったわけだが、その時に若宮で、大直禰子命に明日のお祭りで大神のお祀りをするようにお願いし、神輿に乗ってここまでおいで頂いたというわけだ。祭りは以下の要領で明日まで続く・・・

9日の午前には神社関係者・氏子崇敬者・各種団体関係者など千名近くの参列を得て、拝殿で例祭の大神祭が大祭式で盛大に行われ、神楽「うま酒みわの舞」が奉奏されます。午後からは若宮の御分霊を神輿にお遷しし、三輪の町中を巡幸する若宮神幸祭(わかみやしんこうさい)が行われます。これは大直禰子命を里人がお迎えしたさまを伝えるものと言われ、神輿を中心に、馬に乗った宮司以下神職、時代装束を着用し各地区の幟や神宝を持った氏子、稚児や甲冑騎馬武者など総勢250名余がお供をして三輪の町を巡幸します。 10日の後宴祭の後に、若宮の御分霊を若宮社にお戻しする祭儀が行われると、正午からは祭りを締めくくる後宴能が催されます。斎庭に設けられた桧舞台で、神社ゆかりの能「三輪」、狂言「福の神」などがその道の大家によって演じられ、3日間にわたる春の大神祭は目出度くとり納められます。

10日の後宴能は、なかなかの顔ぶれがやってくるのでちょいと見ものである。

ところで・・・神前にはもう少し変わったものが目にすることができた。上の「宮神幸祭(地元では”お渡り”と言っている)」のための神具である。

IMGP5383

IMGP5384

IMGP5387

まことに興味深い品々であった・・・

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今週の三輪山・・・巻向川のほとりより

万葉集 今週の三輪山 大和のこと

2016年3月28日6時56分

本当に久しぶりの「今週の三輪山」である。撮影したのは巻向まきむく川と上つ道(上街道)の交わった橋の畔の用水池の土手。以前にも何回か、ここからの写真はご紹介した。

http://soramitu.net/zakki/archives/7203 http://soramitu.net/zakki/archives/7104

私のお気に入りのアングルである。同じアングルであっても季節によって、光の加減によってだいぶ印象が違っていて、いつも私の目を楽しませてくれる。

場所はその時も紹介したように上街道と巻向川の接するあたりに位置したため池の堤である。大和はかつて、少々の日照りでも水争いが生じるほど水の乏しい盆地。したがって・・・あちらこちらにため池が築かれた。このため池もそのうちの一つである。

上街道は、それが古代のそれそのままとは言えないが、上古の時代に築かれた上つ道をなぞって作られた道である。北は奈良坂から南は桜井、山田道を経て藤原京に至る古代からの幹線道路のひとつである。のちには初瀬詣でや伊勢参りの人が行き交う信仰の道して知られるようになった。

巻向川は・・・ご存知「纏向まきむく」の人々にとっての聖なる流れ・・・万葉集にも

ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音かはと高しも あらしかも疾き

万葉集・巻七/1101

と歌われている。

そんな場所から見る三輪山の日の出もまた格別である。

 

人がそこに住み、暮らし続けるということ

大和のこと
孔子が泰山のそばを通った時のこと・・・墓の傍らで声を上げて泣く婦人がいて、その様子は悲しげだった。先生(孔子)は車の横木に手をついて丁寧に礼をして、、弟子の子路にその理由を質問させた。 「あなたが声を上げて泣く様子は重ね重ねの悲しみがおありのようです。」。 するとその婦人は答えた。 「そのとおりです。昔、私の舅が虎によって死に、私の夫もまた虎によって死に、今度は我が子までもが虎によって死にました。」。 先生は重ねて聞いた。 「どうしてそんな危険な場所を立ち去らないのですか」 婦人は答える。 「ひどい政治がないからです」 先生は振り返って弟子達に言った。 「弟子達よ、、このことをよく覚えておきなさい。ひどい政治は虎よりも恐ろしいのだ」と・・・

孔子泰山の側を過ぐ。婦人の墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子式して之を聴き、子路をして之に問はしめて曰く、  「子の哭するや、壱に重ねて憂ひ有る者に似たり。」と。 而ち曰く、 「然り。昔者吾が舅虎に死せり。吾が夫又焉に死せり。今吾が子又焉に死せり。」と。 夫子曰く、 「何為れぞ去らざるや。」と。 曰く、 「苛政無ければなり。」と。 夫子曰く、 「小子之を識せ。苛政は虎よりも猛なり。」と。

(「礼記」檀弓下)

以上は、無道な政治がいかに恐ろしいものであるかを語る寓話としてあまりにも有名な話であるが、何も今の政治状況を語るためにここに引用したわけではない。ではなぜ、突然こんな寓話からブログを書き始めたのか?

それは最近訪問し始めたまっつんさんという方のブログ積讀日記の最新の記事「『三陸海岸大津波』 文春文庫 よ-1-40」にあった

 「何でそんな津波の多い危険なところに暮らすのか?」という疑問は、正直なところ、最初はオイラも抱いていた。が、やはり人が住み慣れた土地を離れたり、先祖代々の生活方法を捨てるというのは、簡単なことではないのではないかなぁと今は思ったりもする。

という一節に触れたためである。

[caption id="attachment_832" align="alignnone" width="300"] 2011年9月 かつては向こうの松林まで家が連なっていた。[/caption]

私の生まれ育った宮城県東松島市野蒜の多くの地域は、かの日の昏く冷たい波濤により壊滅し、人々は他所に移住を余儀なくされた。むろん中にはそのような恐ろしい場所にこれ以上暮らし続けてはいられない・・・そのような思いから移住された方も少なからずいらっしゃるが、基本的にはその場所が復興にまつわる新たな町作り計画により人が居住することが認められない地域に指定されたからである。人々は新たに造成される「町」、そしてまたそれぞれが新たに自分の居所として定めた場所に移住し・・・あるいは移住しようとしている。

けれども・・・もし、この行政によるこのような措置がなされなかった場合を考えたとき、それは一定の比率には過ぎないのかも知れないが、代々暮らし続けた地で再び生活することを選ぶ人々が少なからずいたに違いない。そして・・・それと同じことは、これまで幾たびかこの地を襲った悲劇のたびに繰り返されていたに違いない。

多くの人々の命が奪われ、自らもまたその危機を辛うじて逃れ・・・さらには生活を営むすべの全てを破壊し尽くされても、なぜ人はそこに暮らし続けるのか・・・あるいは暮らし続けてきたのか・・・

まっつんさんの問いは実に正鵠を射るものであることは疑うまでもない。そんな疑問を抱いたとき、ふと私は以前訪れた「千年村プロジェクト」というサイトを思い出した。

〈千年村〉とは、千年以上にわたり、自然的社会的災害・変化を乗り越えて、生産と生活が持続的に営まれてきた集落・地域のことをさします。 千年村プロジェクトは、全国の〈千年村〉の収集、調査、公開、顕彰、交流のためのプラットフォームとして構想されました。東日本大震災後に、優れた生存立地を発見しその特性を見出すことの必要性を感じたことが発端です。関東と関西に研究拠点を持ち、環境・集落・共同体に関する諸分野の研究者・実務者らで構成された千年村プロジェクトによって運営されています。(千年村プロジェクトとは

というのが、このサイトの趣旨である。

平安時代中期(承平年間931~ 938)に編まれた辞書・・・さらに百科事典という要素も併せ持っている・・・「倭名類聚鈔」には「國郡部」が部立てとして設定され、そこには古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称が網羅されている。このプロジェクトは、そこに記されている地名の比定地を探し、現在の集落の分布と重ね合わせることによって、「千年以上にわたり、自然的社会的災害・変化を乗り越えて、生産と生活が持続的に営まれてきた集落・地域」を探し出すことを、その作業の第一歩としている。そして集落の「環境・集落・共同体の各分野にもとづいたその持続要因の分析と、その地域の性格(キャラクター)を把握し」、さらにはその村の存続に寄与しようというのがその目的なのだという。

話題は少しそれるが、かつて考古学者石野博信氏と言葉を交わす機会があったとき氏が次のようなことを言っていたのを思い出した。

それは氏が長年関わってこられた我が桜井市纏向遺跡に関わってのことだった。ご存じのように纏向の地はヤマト政権発祥の地ともくされ、考古学的にも重要な発見が毎年のようになされている地であるが、実はその推定地域の5%に満たない地域しか発掘調査は進んでいない。理由は至極単純である。今もなおそこに多くの人が住み、宅地として、農地として利用されているからである。まさか現に人が住んでいる家をこぼち、その下の地面を掘り返すわけにはいかない。そこに住む人々の生活を支える田畑を掘り返すわけにも行かない。したがって発掘はなんらかの工事があってその場所が一時的にもその住人の生活から切り離されるわずかな間隙を縫ってしか行うことは出来ない。

そこで私が「なんとも歯がゆい状況ですね・・・。」と問いかけたときのことであった。

「まあ、仕方ないわな・・・今もそこに人が住んでいると言うことは、そこが人が暮らすには便利な場所であるからや。1700年位上も前からそんな場所だったから、纏向はあるんや・・・」

と氏はお答えになった。

確かにそうなのだ。人がそこに住み始め、暮らし続けるには必ずそこに一定の要因が存するはずだ。それなしには長い年月にわたって人が居住を続けるわけがない。

だとすると・・・この度、被災した多くの地域もまた、これまでの集落の歴史の中で幾たびもの悲劇を経験しても、なお、そこに人々が居住し続けてきたことにはその危険要素を越えたなんらかの要素があったからに違いない。それはいったい何なのか・・・

その答えの一端を次のように与えてくれる文章にであうことが出来た。

なぜお婆さんたちのご先祖は、代々ここで暮らしていたのか? それは戦乱で日本が貧しく、インフラが未熟だった時代(間近では昭和20年代)には、都市に住んでいるよりも、山あいに住んだ方が、清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入り、生きやすかったからです。こうした集落の多くは平家の落人、戦国時代起源の伝説を持ち、新しいところでは敗戦直後の満洲帰還者の戦後開拓として始まった所が多いのです。先のお婆さんも、戦後の飢餓の時代も麦があったから食べ物には困らなかったと言っていました。彼らは自分の事は自分で出来る、お金に頼らず生きて行ける力を持つ、逞しい知恵と力の持ち主です。食べ物を収穫し、うまく保存し、炭を作り、製材をする。先行きの見えない今の時代、人が最も必要とする確かなものではないかな、と思うのです。(「昔の人は、なぜ不便な山村に暮らしていたのか?」 NHKオンライン アーカイブス エコチャンネルのブログ)

確かにこの一文で述べられているのは戦後の間もない頃という限られた時代であり、幾世代もに渉って・・・というこれまでの私が述べようとしてきたことからみれば、かなり限定された時代についてしか述べられてはいない。しかも、常に津波の危険にさらされている海岸線の集落と、山村の集落とは状況が違う。けれども、そこに暮らし続けてきた人々にとって「清潔な水、食べ物、燃料、建材が、お金ではなく労働と協調によって手に入」る「生きやす」い場所であったという事実は共通していたのではないか・・・

「インフラが未熟だった」だけではなく、貨幣経済自体がそれほど大きな意味を持たなかった(全くという事ではない)であろう近世以前の地方集落にあって、自分の事は自分で出来る、お金に頼らず生きて行ける・・・そんな場所は、他の何物にも代えがたい大切な場所であっただろう。とりわけ、水と食料は生を営むためにはけっして欠かす事の出来ない要因である。そして人々は・・・そのために今いるその場所に暮らし始め、世々を経てきたのである。無論、そこが安全な場所であるに越したことはない。けれどもいくら安全であったとしても、そこが水も食料も得られないような場所であったならば・・・人はそこで暮らし始めたりはしない。一見、何を思ってこんなところに・・・というような場所であっても、人がそこに暮らし続けてきた理由はあったはずである。

けれども・・・時代は変わった。産業の構造は決定的に変化し、労働は貨幣に換算され、その貨幣無しには暮らしが立ちゆかない世となった。これは逆に言えば、貨幣さえあれば・・・そしてその貨幣を得るための労働の場さえあれば(さらには都市の発達やインフラの整備も加わって)、人はどこで会っても生活を営むことが可能となった。今回の震災に関わっての復興計画の中で大規模な移住がなされようとしているのも、その変化が可能とさせたものだ。

しかしながらそこにはある種の悲哀が存するのも否めはしない。そこに「住み慣れた土地を離れたり、先祖代々の生活方法を捨てる」ことは、ある意味では、自分たちのアイデンティティーの放棄につながりかねない。だからこそ人は自らの郷里を愛し、執着するのだ。そしてそれこそが、このたびの被災により、郷里を離れねばならなくなった人々に、生爪を剥ぐような苦痛をもたらしているのだ。

30年以上も前に郷里を離れ大和の地に生活の根を生やし、帰郷することも稀になった私ですら、その稀な機会に誰も住まなくなった生活の痕跡すら残してはいないふるさとを見ることはつらく・・・せつない。ましてや、あの日までそこで生活し、それ以降もそんな毎日が続くと信じていた人々は、自分たちのよりどころになる場所が・・・消失し、再びそこに暮らすことが禁じられてしまったのだ・・・あるいはあの日の未曾有の惨事を想起させるものとして、再びその地に立つことすらかなわぬものになってしまったのだ・・・・

[caption id="attachment_868" align="alignnone" width="300"]Photo0067.jpg 2011年9月 私の実家の近所にあった白髭神社狛犬。おそらくは震災ののちに再設置されたものだろう。[/caption]

今必死になって生活の再建に取り組んでいる人々の中には、デラシネになってしまった(「になってしまった」というのは不適切だ。「にされてしまった」と言った方が正確だろう)思いを抱きながら日々を過ごしていらっしゃる方も、けっして少数ではなく存在するだろう。そんな人々が、そんなやりきれぬ思いから解放されるのはそんなに容易なことではない・・・


 

以上、この文章の書き起こしから見るとずいぶんとかけ離れた場所まで話が飛んだように思われるかも知れない。そのあたりの不明はお詫びするしかないが、今回この記事を書こうと思い立ったのは、暇に任せてあちらこちらとネットサーフィンを楽しんでいた折に、上に述べた千年村プロジェクトというサイトに出くわした事がきっかけだ。隅から隅までというわけではないが、サイト全体に目を通し、その趣旨に共感を覚えた私はこの営みをできる限り多くの人に知っていただきたいと思った。

「このデータベースが呼び水となって、新たな〈千年村〉の報告がもたらされることを期待しています。」という一節が上に紹介した千年村プロジェクトとはという頁にあるが、無学の私にはこれと言った情報提供が出来そうではない。ならば・・・我がブログに訪問いただいている諸賢にこの情報を伝える事だけでもさせていただこう・・・と思ったのだ。

だがいざ書こうとすると、どのように書き起こしたものか・・・遅々として筆(キーボード)は進まず・・・・といった状況の時にまっつんさんの文章の「何でそんな津波の多い危険なところに暮らすのか?」という問いが目に入った。まっつんさんのブログに行っていただければすぐにわかることであるが、まっつんさんは漢学の才をもたれたお方・・・と、ここからは実に短絡的な発想に出してしまうのであるが、このまっつんさんの問いに・・・そうだ、孔子が答えているではないか・・・とふと思い当たったのである。浅はかと言えば浅はかな着想である。

以上が今回の支離滅裂な文章の言い訳である。言い訳を言わねばならぬのなら皆さんに公開しなければいいものだが、せっかく書き始めたことだ。奇特であること、比肩しうるものがない我がブログの読者の方々は、そんな支離滅裂な文章でも、充分に我が意を汲み取って下さる・・・そんな思いからこうやって公開することにした。

万葉の桜井・・・高家

万葉集 大和のこと 文学のこと

高屋

舎人皇子(とねりのみこ)の御歌一首

ぬばたまの 夜霧は立ちぬ 衣手(ころもて)の 高屋(たかや)の上に たなびくまでに

(ぬば玉の)夜霧がすっかり立ちこめた。(衣手の)遠く高屋のあたりの上を覆いつくしてたなびくほどに。

(九・1706)


高屋(たかや)

所在は定かではないが、『延喜式神名帳にある(しきの)(かみの)(こほり)高屋(たかや)安倍神社」(桜井市谷の若桜神社境内)とする考えが古くからなされている。

[caption id="attachment_7646" align="alignnone" width="300"]若桜神社 若桜神社[/caption]

上の写真が、若桜神社へと上る階段である。近鉄桜井駅から南へ500mほど下った右手の小高い丘に鎮座する。高さは10mほど、上り詰めると下のような拝殿が目に入る。

[caption id="attachment_7647" align="alignnone" width="300"]若桜神社拝殿 若桜神社拝殿[/caption]

拝殿の背後は高い柵に囲まれその姿を拝むことはできないが、2つの神殿が並んで配置されてある。そのうちの一方が高屋安倍神社というわけだが、実はこの高屋安倍神社は初めからこの場所にあったわけではない。

父老云昔在櫻井谷邑管内安倍松本山近移若櫻神社傍 父老云はく、昔櫻井谷邑管内安倍の松本山に在り、。近く若櫻神社の傍らに移る。

と大和志にはあり、桜井市史はこれを追認し、松本山の所在地について、 「もとは南方400mの字松本山」と述べている。この松本山は若桜神社の南400mという記述に従えば現在の桜井公園(桜井小学校の東)辺りになる。

一方、この高屋を現在の桜井市高家と推定する考えもなされている(万葉集注釈)。高家多武峰の南西の斜面一帯を言う。

[caption id="attachment_7649" align="alignnone" width="300"]真神原北方より見た多武峰 真神原北方より見た多武峰[/caption]

上の写真でいえば、中段に伸びる横雲の左3分の1の辺りが高家である。

歌中に「夜霧は立ちぬ 衣手の 高屋の上に たなびくまでに」とある以上、一定の高度がある場所が想像されるが、前者の説のによる推定場所(松本山)ではいかにも高度が乏しく、この高家のほうがその歌意にふさわしいというのだ。

また、作者舎人皇子の宮が多武峰の近くにあったことから、その高殿=高屋であるという考えも近年提出されている(万葉集釈注)。確かにこの歌に歌われているのは「夜霧」。である以上、この歌が遠景を歌っているとは考えにくい。自らのいる高殿=高屋を覆うほどまでに夜霧が立ち込めてきた・・・と理解するのが穏やかなようにも感じられる。

二つの校歌(3月11日によせて)

思いでのこと 考えたこと 音楽のこと
松風は窓ににおい白き渚鴎光る。 ああ、我らここに集いて瞳清く英知磨かん・・・

これは私が卒業した鳴瀬第2中学校の校歌である。この校歌がもう歌われることのなくなったものであることは、ちょうど1年前の記事にて皆さんにご説明をした。

5年前の今日、あの昏く冷たい波濤に貫かれた我が学舎に、再び子どもたちの声が響くことはなかった。震災後、しばらくの間、隣の鳴瀬第1中学校の校庭に仮校舎を設け授業を続けた我が母校は、2013年3月16日にその長い歴史を閉じた。震災に伴う人口の減少の他、様々な事情からこの2つの中学校は1つの中学校「鳴瀬未来中学校」としてスタートすることになったのだ。そして、その新しい中学校のスタートを飾るかのように素晴らしい校歌が加藤登紀子さんから贈られた。

そして今年・・・やはり市役所の空き室やプレハブの仮校舎にてその営みを続けていた私の母校である小学校もその長い歴史を閉じた。これもまたただでさえ過疎化が進んでいた我が郷里に震災が追い打ちをかけた結果である。我が母校野蒜小学校は隣にあった宮戸小学校と合併し「宮野森小学校」としてこの4月からスタートを切る。

そして・・・その校歌もまた加藤登紀子さんから贈っていただくことになったのだ。

加藤さんと我が郷里にどのようないきさつがあったかは知らない。けれども、この歌に対する加藤さんのお気持ちは加藤さんのオフィシャルブログにてその一端は窺い知ることが出来る。

そういえば、「鳴瀬未来中学校」の校歌の時も次のように書いて下さっていた。

http://ameblo.jp/tokiko-kato/entry-11454903928.html

加藤さんがどんな人であるかは私に知るよしはない。けれども、これまでの彼女が世に問うてきた作品の数々や、様々な活動、そして私事の範疇に属することだが、いささかながら加藤さんと言葉を交わす機会があった私の妻の印象から想像するところの加藤登紀子像というものを考えたとき、そのような方に私が卒業した2つの学校(その後身)の校歌を作っていただいたことを実に喜ばしく感じている自分を、私は今見つけている。それがそこで学ぶ子どもたちに何処まで影響をもたらすかは語れないにしても、少なくとも校歌というものがその学校の教育の方向性を示す・・・極言をすればライフインディキスとも言うべきものであるからだ。少なからずその思いは子どもたちに伝えられるはずだ。

被災の地にて、これから社会へと巣立って行く子どもたちが、そんな彼女の思い(少なくとも私の目に映る加藤登紀子の)の思いを受け継ぎながら育って行くとするならば、それは何とも素敵なことではないか・・・

ところで・・・野蒜小学校と言えば、この2月10日にふと目を惹く記事が毎日新聞に掲載されていた。毎日新聞に掲載されたのでご紹介しておく。

ファイト!:東日本大震災5年 17歳、語り継ぐ決意 - 毎日新聞

詳細は、ここで私がくだくだしくご説明するより当該の記事を読んでもらった方が良いかと思うので省略するが、事情の飲み込めない方のために一つの動画も併せて紹介しておきたい。

野蒜小学校の体育館は、災害時における避難所に指定されていた。そして5年前のこの日も多くの住民がこの体育館内に避難していた。その体育館をあの昏く冷たい波濤は飲み込んでしまったのだ。ギャラリーやうまく逃げのびることが出来た人々も多くいたが、必ずし全ての人々がそうできたわけではなかった。・・・子どもたちは、そこであったはずの言葉にも出来ぬような悲劇を目の当たりにしたはずなのだ。

言いしれぬ傷が、子どもたちの心に・・・そしてその場を生き延びた人々の心に深々と刻み込まれたことに違いない。

ともあれ・・・また今日がやって来た。もう5年もたったのかという思いと、まだ5年しかたっていないのかという思いが胸中を行ったり来たりして、何ともやりきれぬ気持ちになってしまう3月11日が・・・

すっかりと姿を変えてしまった私の郷里に対し、自分が何もなしえていないという事実に少なからず責めさいなまれ、やるせない思いにうちひしがれてしまうその日がやって来た・・・


この記事のアイキャッチの画像に示された「ハマナス」は、かつて我が郷里である東松島市野蒜が、桃生郡鳴瀬町野蒜と入っていた頃の町花である。毎年、梅雨の自分になると、小学校の行き帰りにいつも目にしていた花だ。