読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

「花巴」の里・・・下

大和のこと 飲食のこと

麹室こうじむろでの作業が済めば、今度は「酒母造り」である。杜氏さんや蔵の人々は「もと立て」というらしい。まずは麹室で麹菌の働きにより糖化の進んだ蒸し米・・・麹を水に加える。この状態のものを水麹という。この際、麹を入れる仕込み水は、当然のことながら酒造に適した上質な水が求められる。そして・・・この「花巴」の製造に使われている水は・・・「弓絃葉ゆずりは御井みい」と伝えられる井戸からくみ上げられたもの・・・

・・・なんて書くと、玉村の源さんなんかは「あの・・・?」なんてお思いになるかもしれない。そうである。万葉集

いにしへに 恋ふる鳥かも ゆずるはの御井の上より鳴き渡り行く

弓削皇子万葉集巻二/万111

と詠まれた、あの「ゆずるはの御井」である。大峰山系の伏流水とされる甘く柔らかな軟水は、万葉の昔より枯れることなく今もなお湧き出しているのだ。むろん諸説あり、断定することは避けなければならないが、そう思ってこの酒を飲んだ方が、額田王ものどを潤した泉の水で作った酒を飲んでいる・・・そんな気になれて酒の味も増すような気がする。

さて、水麹が出来上がったら、今度はそこに蒸しあげたばかりの酒米を入れ、酵母を加える。酵母は多くの場合、日本醸造協会で頒布している酵母菌(協会系酵母)を用いるが、それぞれの蔵に古くから住みついた酵母(蔵つき酵母)を用いている蔵も少なからずある。当然のことながら、前者のほうが均一的な品質を保証するが、より強くその蔵の個性を作り出すのは後者である。この日、社長さんから聞いた説明によれば「花巴」の場合は後者であるのだという。

酒母造りの場所は、酒母室もしくは酛場もとばと呼ばれている。雑菌が入り込まないように室温は低温に保たれなければならない。だから空調システムが発達していなかった頃は、酒造りといえば冬季の作業と決められていたのだ。ただし、麹室ほどの厳重な管理は必要とされない。酒母造りの際には、タンクには軽くふたを置く程度で、しかもその蓋はしばしば開け放しの状態になるから、空気中からタンク内にたくさんの雑菌や野生酵母が容易に入り込んでくる。そのため乳酸菌によって乳酸を生成させることによって雑菌を殺すことが必要となってくるが、この乳酸をどのように生成させるかによって、酒母造りは大きく生酛きもと系と速醸系の2つに分類される。

生酛系とは、空気中の乳酸菌を取り込んで乳酸菌を生成する方法であるが、この生酛系は、さらに大きく生酛と山廃やまはい酛に分けられている。生酛とは、現在でも用いられる中で最も古くから続く製法で、乳酸菌を空気中から取り込んで乳酸を作らせ、雑菌を駆逐する手法であるが、酒母になるまでの所要期間は約1か月。工程も

水麹造り ー 山卸(米と麹と水を、櫂でどろどろになるまで混ぜる作業) ー 温度管理 ー 酵母添加 ー 温度管理 ー酒母完成

と多く手間が掛かるのと腐造や酸敗のリスクが大きいため、多くの蔵では敬遠される傾向にある。

そこで考え出されたのが、山廃酛である。生酛系に属する仕込み方の一つであるが、生酛造りの工程で最も手間のかかる工程の山卸を行わないものである(もちろんそれだけではなく、他に多くの工程の違いはあるらしいが、大雑把に言えばこういうことになるらしい)。山卸を廃止したから山廃というらしい。山卸は麹をどろどろの状態にするために櫂で混ぜることをいうが、山廃では、それを乳酸菌の力にゆだねるのだ。

そして今日多くの蔵で採用されているのが速醸系である。速醸系では乳酸(「乳酸菌」ではない)を人工的にあらかじめ加えられる。多くの蔵がこれを採用するのは所要期間は約2週間と短く、造や酸敗のリスクが少ないためである。

ここからは私の主観によるのだが、生酛系の酒は米の味がよく引き出された、どっしりとした飲みごたえのある酒が多く、速醸系はどちらかといえばあっさりとした味わいの酒が多いように思える。飲みやすさの点から言えば後者ということになろうが、酒好きのものにとってはやや頼りなく感じられるような気がすることが多いのではないか・・・そんな気がする。

私の場合・・・どっちが好みかというと・・・どっちだっていい。ようは、機嫌よくのめればそれでいいのである。ただし、生酛系はどちらかといえばその蔵の個性ははっきり出てくるように思われる。だから飲んでみて「丁寧な造りだなあ。」とは思いながらどうも好きになれない・・・なんて感じるのも生酛系の酒が多いような気がする。。

[caption id="attachment_7614" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_135820 酛樽[/caption]

さて酒母が出来れば次は「仕込み」である(もろみ造りともいう)。出来上がった酒母にさらに3回に分けて麹と蒸米と水を加える工程である。醪とは酒母、麹、蒸米が一体化した、白く濁って泡立ちのある粘度の高い液体のこと。この工程においては、麹の力によって米のデンプンが糖に変わり、同時にその糖を酵母は分解しアルコールを生成する。糖化とアルコール発酵が同時並行的に進行する、他の酒には例を見ない清酒独特の生成過程である。

さて、上に3回に分けて蒸米と麹と水を加えると書いたが、これがいわゆる「三段仕込み」である。すべてを一度に混合すると、酒母の酸度や酵母密度が下がり雑菌の繁殖の可能性が高まるからである。この方法により酵母が活性を失わずに発酵を進めるため、醪造りの最後にはアルコール度数20度を超えるアルコールが生成される。このアルコール度数20度という数値は、醸造酒としては他に類を見ない数値であって、「三段仕込み」という手法によって初めて可能とされる数値であるらしい。

ちなみに街角の酒屋の棚を見ると時には「四段仕込み」「五段仕込み」(中には「十段仕込み」なんてのもある)なんて書いたお酒を目にすることもある。これは・・・通常、「初添」「仲添」「留添」という3段階の工程に、「添え」の過程を1回乃至2回(もっと多い時もある)増やしたものである。

もちろん、この「仕込み」の行われている幾本もの巨大な「樽(タンク?)」も拝見させていただいた。そして・・・完成に近づいている「樽」の上部の蓋を開けていただきその香を試すことができた。

この蔵に入って以来、その強弱はあれ、あまり好ましいとは言えぬ発酵臭を常に感じていた(特に酒母室のそれはことさら強烈。そうそう、これは先日報告したニッカの醸造棟にも似たような香りがしていたなあ)のだが、この場所は違う。いよいよ「製品」に近づいているのだなと感じさせる好ましい香りだけが漂っている。とくにその香を試させていただいたタンクの製品は、なんでも鑑評会向けに作っているものであるということで、その・・・いわゆる吟醸香は、「人をして陶然とさせる」というお決まりの言い回ししか許さぬような素晴らしいものであった(ただしこの蔵の求める酒室は香り控えめで味の豊かなものだということで、私たちが試したタンクはあくまでも鑑評会向けのもの)。

醪が完成すれば、次は上槽じょうそうである。いわゆる搾りの過程である。杜氏の判断で「熟成した」と判断された醪を搾って、白米・米麹などの固形分と、生酒となる液体分とに分離させる工程である。

[caption id="attachment_7623" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_141846 醪自動圧搾器[/caption]

上槽には様々な方法が使われているが、この蔵で用いているのはこの醪自動圧搾機を使ってのもの。他には遠心分離機などを使う蔵もある。さらには昔ながらの槽搾ふねしぼり・ヤブタ搾り・袋吊りなどの方法もある。

上槽された後のものは俗に槽口と呼ばれているが、この後おり引きとという工程を経て「生酒なましゅ」という(よく言われている「生酒なまざけ」とは別の概念らしいが、その違いは私にはよくわからない)。生酒なましゅはさらに濾過の工程により、さらにまだ残っている細かい滓や雑味を取り除くことで、活性炭を用いた濾過が主流であるが、他にも珪藻土濾過・フィルター濾過などの手法もある、複数の手法を並行して行う場合もある。

さて、上槽されたばかりの生酒は、まだ中に酵母が生きて活動している状態にあり、麹により生成された酵素もその活性を保っている。ゆえに酒質が変化しやすく、乳酸菌の一種である火落菌も混入している可能性がある。これらのすべてを死滅させなければ酒質が変化したり、白濁してしまう(火落ち)可能性がある。そこで、生酒に加熱し、これらの菌を死滅させる工程が「火入れ」と呼ばれる工程である。65度前後の過熱を23秒行えば、すべての菌を殺すことができるということが知られているが、これが温度が高すぎたり、時間が長すぎたりするとアルコール分や香気が飛んでしまうため、これまた気を使う作業であることは言うまでもない。なお、 吟醸酒などは香りが飛ばないように瓶詰めしてから火入れすることもあるが、この蔵においてはすべての製品をこの手法にて火入れを行っている。

・・・と、あてにもならぬ私の講釈(当然皆様は眉に唾を塗りつつここまでお付き合いしていただいたとは思うが)はここまでにして・・・いよいよ試飲である。

[caption id="attachment_7625" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_143115 花巴 7種[/caption]

左から順に本醸造・純米(平仮名で書かれているから速醸)・純米四段仕込み・純米吟醸うす濁り・純米吟醸・純米水酛(製造工程で生米を使用)とここまでが今年出来たばかりの生酒。一番右は純米の1年物。

社長のお話によれば味のほうは右に行くにつれて次第に濃厚な味わいになってゆく・・・ということだから、左から順に試してゆく(ただし、これから試そうかというときに、社長が「ちょいと間違った・・・」と言って、本醸造と、速醸純米を入れ替えた)。

ここから先は、この時のそれぞれの印象をつぶさに皆様にお伝えするのが本筋というものだが、人がうまいものを味わったことを聞かされても、聞いている人間はそんなにおいしいなら俺にも飲ませてみろよ・・・と思うのが世の常というもの。けれども、それは私の懐の都合が許さない。

くわえて、それを皆様に納得いただくだけの筆力は私にはない(ここに乙山先生がいらっしゃれば・・・)まあ、本醸造が他の蔵の純米に相当するほどのしっかりとした酒質であったことだけをお伝えしておこうか・・・いずれにせよ、そのどれもがまことに個性的でよそでは決して味わうことのできない・・・そんな酒ばかりであった。

共に食すべきは・・・海のものよりは山のもの・・・というべきか・・・

社長さんは、何もなくても飲める酒が理想であるとのこと。

この時は何もなしでこの7本を試していたわけであるから、その理想はある程度以上達成されていた・・・・というべきか・・・・。

そんなに長い時間の利き酒ではなかったが、我々が口にした酒の量は「試す」という言葉の範疇ははるかに超えていた・・・・

「花巴」の里へ・・・中

大和のこと 飲食のこと

「花巴」という酒の名は、これまで何度かきいたことがあったが試したことはなかった。それどころか酒屋の店先でそのラベルを見ることすら、おそらくはなかった。それは、限られた酒屋、限られた酒場にしか卸してはいない・・・というこの蔵の姿勢によるものなのだが、この蔵に入ってみてその理由はおおかた窺い知ることができた。蔵自体、それほど大きな蔵ではないので大量に生産し販売することが出来ないのだ。そして以下に示すこの蔵の酒造りにかけたこだわりは、その生産量が奈良県内の酒屋にすら、この蔵の製品が行き届かないという事情をさらに雄弁に物語っていた。

・・・ひょっとしたら、自分たちの酒造りに対する思いを理解してくれる・・・そんな酒屋や酒場にしか、自分たちの愛子まなごを慈しむようにして造った酒をまかせはしないのだという方針なのかもしれない。

だとすれば、そんな酒屋や酒場が数多くあるわけはない。とすれば、今ある蔵の規模が最適なのかもしれない。蔵が小さいことは、それだけその製品に生産者目が行き届きやすいという利点をも生む。

さて前置きはここまでにして、早速蔵見学を始めよう。

まずは事務室(?)の方にいらっしゃる社長さんにご挨拶。今日は社長さんが直々にご案内下さる予定だ。

蔵に入るとまず目に入ったのは酒米の入った30kgの袋の山。酒米は「吟のさと」。地元農家と連携し、奈良県内では初めて作付けが為された酒米である。酒米山田錦・雄町・五百万石など)は、背丈が高く、倒れやすい性格を持っているため栽培が難しい。そういった酒米の欠点を改良し、例えば山田錦よりも25cm背が低く、主食用米同様に栽培しやすく改良したのが「吟のさと」である。さらに、酒米は基本的に高精米を前提としているため、通常の主食米より粒が大きくなくてはならないが、それも申し分ないのだという。精米は通常の主食米であれば90パーセント強(つまり100gの玄米が90gになっちゃう)であるが、酒米の場合、あまり品質の高くない普通酒用の精米であっても75パーセントまで削る(大吟醸なんかは50パーセント以下)。だから、粒の小さい米だと精米の段階では砕けてしまうのだ。また酒米は蒸した状態の時、外剛内柔、表面がツルツルしていることが大切である。いい酒にするために必要な部分が米の内側にあるデンプンの方で、外側よりも内側が先に溶け出してくるようにしたいからである。だから、酒米を食べれば、パサパサしていてとても食えたものではないが、逆に言えば、軟らかく食べて旨い米は酒造りには向かないといえよう。

この「花巴」では県内農家の方に頼んで「吟のさと」を作ってもらっているが、今年からの試みとして、仕込む際に作った地域、田圃ごとに分けて使用し、その性質によって生じる製品の品質の差(優劣と言うよりも個性といった方が適切か)を試してみたいということだった。同じ種類の米と入っても、田や水が違えば含んでいる成分の構成は当然異なってくる。ということは、出来上がる製品も違う個性を示すのは自明であるからだ。

ここにある袋の「吟のさと」を精米し、精米の際に生じた摩擦熱がすっかりと冷めた状態までおいておくことを「枯らし」という。場合によってはこの「枯らし」に3~4週間もかかることがあるのだそうだ。奥ではおばちゃん達が精米の済んだ「吟のさと」を10 kgずつ小分けにして袋に入れていた。「枯らし」が済んだものか、その前のものかはわからない。

[caption id="attachment_7611" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_133759 洗米場[/caption]

「枯らし」が済めば次の作業は「洗米」である。上の写真の中央に見えるステンレス製の機材が洗米機である。上に述べたように10 kgずつに分けられた「吟のさと」はここで、精米の過程で表面に付いた糠・米くずを徹底的に除去される。そして「浸漬しんせき」。洗米された米に水分を吸わせる作業である。どれだけ水を吸わせるかによって、酒の味は大いに異なってくる。米の品種や、目指す酒質によって、水につけておく時間も数分から数時間と異なっているが、その違いが味の良否を大きく左右するため、とくに高級酒の場合はストップウォッチを使って秒単位までその時間を管理しているのだそうだ。

[caption id="attachment_7612" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_133958 蒸し窯[/caption]

続いて「蒸し」の作業。蒸気を米にあてて蒸し米をつくる過程である。蒸し米は、麹、酒母、醪を作る各工程で用いられるが、「浸漬」が済んだ「吟のさと」は一定の時間をおいて、ここで蒸し米となる。普通酒などでは自動蒸米機を用いて大量に一気に蒸し上げてしまうが、高品質を目指す場合には写真のような和釜に載せた甑(こしき)によって蒸し上げられる。蔵の内部を見渡すに、自動蒸米機らしき機材は見当たらないから。この蔵では全ての製品において高品質を目指している・・・ということなのだろう。

[caption id="attachment_7613" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_134155 麹室[/caption]

次は「麹造り」。正式には製麹せいきくという。蒸した米に麹菌の胞子をふりかけて育てる作業で、たいてい酒蔵には麹室こうじむろと呼ばれる特別の部屋があって、そこで麹造りが行われている。室内は30℃強に保たれており、中に入ると汗ばむほど暑い。無論麹菌の培養のために必要な温度であるからだ。通常、麹室には関係者以外は入れない。雑菌の侵入などを恐れるためだ。だから、今回こうやって中に入れてもらえたのは希有の体験であるといって良い。

麹室は上記の性質を保つために密閉性が高くなくてはならず、加えて断熱性も高くならなくてはならない。室の中に入る際に気がついたのだが、その入り口には分厚い木の板で作られた扉が2枚設けられていた。さらにはそこから見えたこの部屋の壁の厚さは60 cmほど。なんでも二重の壁になっていて、その間に断熱材として籾殻がぎっしりと詰まっているのだそうな・・・

かなりの資本をかけて丁寧に造られているらしいのがよくわかり、「麹室は酒蔵の財産」と言われるもゆえ無しとしないことが素直に頷けた。

さて写真中央に布にくるまれた饅頭状のものが目に入ると思うが、これは麹菌を植え付けた後の蒸し米。社長さんがわざわざ、その布をほどき、中の蒸し米を手渡してくれたが、まさに「外剛内柔」。パサパサとして堅くとても食べられたものではない。

社長さんの説明によれば、この蒸し米は朝早くに麹を振りかけ混ぜ合わせ(「種切り」)たもの。あと少しすれば(最初の作業から8~9時間)、いったん饅頭上に集めた蒸し米を広げ、麹菌の繁殖により生じた熱を放散させて、再び饅頭状にまとめ布にくるみ直す(「切り返し」)のだという。

翌日になると麹菌の活動はいよいよ盛んになり、米の温度も上昇が激しくなる。そこで大きな饅頭を解き、小さな箱に米を少量ずつ小分けにしていき、この箱を決められたスペースに積み重ねて温度の管理をする(「盛り」)。箱の上下を入れ替えたり、箱の下に空間を作ったりして、発生する温度の上昇を防ぐのである。写真右奥に見えるのがそれである。非吟醸系の酒の場合、麹蓋は使われないことも多いが、この蔵では全ての製品にこの手法を用いている。麹を植え付けてから50時間ほど経過した頃になると、蒸し米が香ばしい匂いを放つようになる。これが麹ができたサインとなり、麹室から麹を出す(「出麹でこうじ」)。

ところで、蒸し米に生じる麹菌の状態は実は一様ではない。それを見極めるのが、米のところどころに生じる破精はぜである。麹菌が蒸し米の中へ菌糸を伸ばしていくことを破精込はぜこみというが、その態様によって

突破精つきはぜ

菌糸は蒸米の表面全体を覆うことなく、破精の部分とそうでない部分がはっきり分かれており、なおかつ菌糸は蒸米の内部奥深くへしっかり喰いこみ伸びている状態。強い糖化力と、適度なタンパク質分解力を持つ理想的な麹となり、淡麗で上品な酒質に仕上がる。

総破精そうはぜ

菌糸が蒸米の表面全体を覆い、内部にも深く菌糸が喰いこんでいる状態。糖化力、タンパク質分解力ともに強いが、使用する量によっては味の多い酒になりやすい。濃醇でどっしりした酒質に仕上がる。

り破精

菌糸は蒸米の表面全体を覆っているが、内部には菌糸が深く喰いこんでいない状態。糖化力、タンパク質分解力ともに弱く、粕歩合が高く、力のない酒になりやすい。

馬鹿破精ばかはぜ

蒸しの段階で手加減を間違えたため、蒸米が柔らかすぎて、表面にも内部にも菌糸が喰いこみすぎ、グチャグチャになった状態。こうなると雑菌に汚染されている危険もある。酒造りには通常使えない。

と分類されている。

無論、後の2つは、どの酒蔵でも臨むところのものではないが、前の2つはその蔵の目指す酒質によってどちらが好ましいかは異なってくる。そして・・・「花巴」が目指すのは「味」(これは後で行われた「利き酒」ではっきりと了承できた)。したがって、総破精を作ることがここでは求められている。

ところで・・・麹室の見学という希有な体験をしたあと、ふと奇妙なことに気がついた。麹室が2階にあるのだ。しかも2階までは昔ながらの急な階段で上らなければならない。「蒸し」の過程までが1階、「麹作り」が2階、そして以降の過程が再び1階で行われるということだ。作業のしやすさを考えれば、全ての行程が同じ階で行われるべきであるが、なぜこんな事になったのか・・・

聞けば・・・それは56年前に遡る理由があるとのこと。前回示したこの蔵の遠景でも分かるとおり、蔵は吉野川の辺に建っているが、伊勢湾台風の折、その吉野川の増水により蔵は濁流に現れることになった。ことごとくがながし尽くされ、蔵は壊滅に近い状態になった。今あるこの蔵はそんな状態から立ち直ったわけであるが、その際に麹室は2階に移されたというのだ。「麹室は酒蔵の財産」であるから、再び吉野川がこの蔵を濁流で洗うことになっても、せめてその「財産」だけは守り抜こうとの考えだからだそうである。蔵の心臓部である麹室を大切に思うがゆえに、少々の作業場の困難を犠牲にしたのである。

「花巴」の里へ・・・上

万葉集 大和のこと 旅のこと 飲食のこと

JR和歌山線、吉野口の駅で乗り換えると、近鉄吉野線薬水くすりみず福神ふくがみ大阿太おおあだと少々変わった名の駅を過ぎる。ほどなく目的の六田むだの駅である。万葉集にも

詠河

音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも

巻七・1105

絹歌一首

かわづ鳴く 六田むつたの川の 川柳かわやぎの ねもころ見れど 飽かぬ川かも

右柿本朝臣人麻呂之歌集出

巻九・1723

[caption id="attachment_7602" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_155542 六田の川瀬[/caption]

とも詠まれた風光明媚な土地である。駅を出て、少しばかり吉野川を上流に歩いて行くと次のような看板があった。

[caption id="attachment_7603" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_131958 柳の渡し[/caption]

吉野川は上流にダムができて、今でこそごらんと通りのおだやかな、しかもそう広くはない流れとなっているが、かつては十分な水量を誇っていた急流だったはずだ。けれども、この川の向こうには・・・修験道においてこれに勝ることのない聖地・・・大峰山があった。したがって、平安時代に入ってから三つの渡し場が、大峰参拝の修験者のために開かれた。上流から順に「桜の渡し」、「柳の渡し」、そして「椿の渡し」と呼ばれていたそうだ。かつて宿屋や茶店が立ち並び、宿場町として栄えていたのだという。

写真はその三つのうちの一つ、「柳の渡し」についてのもの。そしてここから、川向に見えるのが今日の目的地である。

[caption id="attachment_7604" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_132017 花巴醸造所[/caption]

吉野の美酒「花巴」の醸造所である。

[caption id="attachment_7605" align="alignnone" width="300"]IMG_20160227_132548 花巴醸造所[/caption]

美吉野醸造所。これがこの蔵の正式な名称である。今日は知人の紹介にあずかって、この蔵を見学させていただく機会を得た。次回は、その見学の場において知ることのできたその一端をお伝えしてみたいと思う。<続く>

 

帰郷の記・・・宮城峡

旅のこと

長々と続いた今回の帰郷のレポートも今回が最後となる。1月9日から11日にかけてのたった3日間の事について書き始めて、もう一ヶ月。そろそろいい加減にしないとお付き合いいただいている皆様にも申し訳ない。

最後に訪れたのは、10日の夜に宿を取った遠刈田温泉からそう遠くはない・・・宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地。

「ニッカ1番地?」と一瞬怪訝に感じられた方もいるかもしれないが、実際にある地名だ。「嘘だあ」と思われる方は、グーグルマップにでもこの住所を打ち込んで見られたらよろしい。ことに怪訝に思われた方ほど、その結果を見ればなるほどと思うはずである。

そう・・・ニッカウヰスキー仙台工場宮城峡蒸溜所の所在地である。

「そう遠くはない」といっても地図上の距離は40 kmほど。車では1時間かかる。県道47号線で幾つもの峠を越え川崎町に入る。そしてその街中、県道457号線へと乗り換え、またいくつかの峠道を越える。やがて457号線は仙山線の踏切を越えたあたりで作並街道に突き当たる。あとは仙山線と並行して走る作並街道を山形方面へと車を走らせるだけだ。ここからはもう10分も車を走らせれば目的地にたどり着ける。時折車窓に見える広瀬川の流れが美しい・・・

そして・・・その広瀬川と新川(にっかわ)の合流点が、宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地である。そしてその合流点より広瀬川を若干遡ったところに、蒸留所内へと続く橋がある。新川橋である。

新川橋を渡り、私は広い敷地に延びる道沿いに駐車場を目指す。そこで車を降りれば見学の受付所まではわずかである。見学するにはあらかじめ申し出ておく必要がある。したがって・・・私の名は向こうの名簿には登録済みである。見学の開始は午前10時。あと20分ほどである。そこそこの広さのある待合で、パネルに流れる・・・この会社の創業者とその夫人との心温まる美しい物語を伝える映像を見る。もちろん、皆さんご存じのあの話である。

余談にはなるが、私はこの話のあらましをかなり前に知っていた。それはもう20数年も前になるであろうか。私は大和のとある酒屋でこの会社の商品を1本購った。確かモルトクラブであったかと思う。その時に店の方から頂いた小冊子に、この物語が紹介されていたのだ。私は一読するなり、この会社の商品のフアンになった。何もこの会社と創業者とその夫人との間の物語のみに心惹かれたわけではない。この会社の創業者の、若い頃に抱いた夢の確かさと、その夢を実現して行く行動力に・・・そして、自ら信じるもののためには一切の妥協を許さない・・・そんな生き様に惹かれたのだ。この魂が受け継がれているのなら、この会社の商品を何よりも信ずるべきである・・・そう思ったのである。

さて・・・時間が来た。バスガイドのような制服を着たお嬢さんが流暢な説明を始める。ひとしきり見学の予定や心構えを聞いた後、その長靴を履いたお嬢さんの後をついて受付所を出る。施設の詳細については、私がここでくだくだしく話すよりも、当蒸留所が用意してくれているサイト上のガイドを見た方がよく分かるだろう。

しかしせっかく行ったのだから、その証明としての拙い写真を以下に幾つかお示ししよう。

[caption id="attachment_7568" align="alignnone" width="300"]IMGP5233 キルン塔と蒸留塔(カフェ式連続式蒸溜機)[/caption]

真ん中に見える、屋根のとがった建物かキルン塔(乾燥室)である。大麦麦芽を乾燥させるための建物で、ウイスキーの独特なピート香(かのドラマでしきりに「スモーキー・フレーバー」と言っていた。)は、大麦麦芽をピートでいぶして乾燥させる間に自然に染み込んだ香りなのだという。

手前がカフェ式連続式蒸溜機が置かれた蒸留塔。トウモロコシからグレーンウイスキーを作っている。このカフェ式連続式蒸溜機というのは、、現在ではスコットランドでも珍しいものらしいが、一体それがどんなものかは知らない。今回は見学対象ではなかったのでガイドさんもお話ししてくれなかったので仕方がない。なんでも、他の連続式蒸溜機と比べて操作が難しく、アルコールをとりだす効率も劣るらしいが、原料の香味が残りやすいらしい。

[caption id="attachment_7569" align="alignnone" width="300"]IMGP5240 仕込棟[/caption]

[caption id="attachment_7570" align="alignnone" width="300"]IMGP5243 仕込樽[/caption]

仕込棟とその内部に配置された仕込樽である。ここでは蒸溜まえの「糖化・醗酵」が行われている。糖度13%前後の糖化液をまず作り、それを醗酵槽に移し、酵母を加えて約72時間をかけて醗酵させる。すると・・・アルコール7~8%のビール状の液体に変化する。これがあの魂の水の種となるのだ。

とはいえ・・・この棟の中は発行が行われる場所。私たちが通る見学用の通路から、仕込樽は厳重に隔てられているが、棟内全体に糖類の発酵する酸っぱいにおいが満ち溢れ・・・これは決して心地良い香りだとは言えない。

そんな酸っぱいにおいの飲み物を、魂の水として世に出だすのが蒸留の過程である。

[caption id="attachment_7576" align="alignnone" width="300"]IMGP5250 単式蒸留器[/caption]

先ほどは連続式蒸留器の設置された蒸留塔の姿をご紹介したがこちらは単式蒸留器の置かれた蒸留棟の内部。ここ宮城峡の蒸留所ではスチームによって加熱する手法がとられており、直火で加熱蒸留する場合より、まろやかなモルトウイスキーが仕上がるのだという。

その蒸留器の上部には、ウイスキーという西洋の産物にはふさわしからぬしめ縄が・・・

[caption id="attachment_7577" align="alignnone" width="300"]IMGP5249 蒸留器に張られたしめ縄[/caption]

ご存知の方は多いと思うが、この会社の創業者はもともとは広島の造り酒屋のせがれ。代々受け継がれた酒造という生業のなかでしみついた感性の中には、どうしても消してしまえぬものがあったのだろう。そこには「酒」という聖なる飲み物を世に出だす作業自体が聖性を帯びたものであるというぬぐいがたい思想があったはずだ。

そして・・・蒸留棟で産声を上げたウイスキーはここで永い眠りにつくことになる。

[caption id="attachment_7578" align="alignnone" width="300"]IMGP5259 貯蔵庫内部[/caption]

ここでの永い眠りが、ウイスキーというものにとってどれだけ重要な意味を持つかは、店頭に並ぶウイスキーの値を見れば瞭然である。同一の銘柄ではあっても、5年ほどしか眠りにつかなかったものと、10年以上の眠りから目を覚ましたものとでは全くその値段は異なっている。

いまここで・・・魂の水は年ごとに少しずつの分け前を天使に与えながら、その時の流れという天使の力によって少しずつゆっくりと成長を続けるのである。

さて・・・最後に訪れたのはゲストホール。ウイスキーの貯蔵庫を改装したこのホールでは、ウイスキーやアップルワイン等の試飲を3種類まで無料ですることができる。この日の試飲メニューは「竹鶴」「スーパーニッカ」「アップルワイン」であったように記憶している。

「~~あったように記憶している。」とは、立った一月前の体験にしてはいささか心許ない表現であるが、仕方がない。私はこの日のドライバー。同行した家人と愚息はこれらを楽しんだようであるが、私がこれらの珠玉のしたたりを試すわけにはいかなかった。

しかたなくソフトドリンクと、そのために甘くなった口をなおすため、備えてあった冷水機の水を口にした・・・が、驚くべきはこの水である。この会社の製品は、その敷地西半分を取り巻くように流れる新川の水を用いているが、このゲストホールの冷水機に蛇口から流れ出る水は、まさしくその新川の水だったのである。かつてこの会社の創業者は自身で新川の水を口に含み、この地に蒸留所を建てることを決したと言うが、彼ほどの味覚のない私にも、この水のすばらしさは理解できた。無味と言えば確かに無味なのであるが、その水が喉を過ぎてなお口中に残る嫋々たる余韻は、この水を口にして蒸留所の建設を決した創業者の判断の正しさを物語っていた。

この水で氷を作り、この水によってつくられたウイスキーでオンザロックを作ったならば・・・あるいは水割りを・・・

夢想は広がる。私はゲストルーム内に併設された売店でその姿を探す。しかし残念ながらその姿を見つけることはできなかった。

かといってせっかくここまで来たのだから・・・と言って購入したのが・・・

[caption id="attachment_7579" align="alignnone" width="300"]IMGP5263 蔵出し原酒3種とショットグラス[/caption]

なんでも、ここでしか買えぬという蔵出し原酒だそうだ。予算の都合で小瓶しか買えなかったが、3種類の原酒の味を楽しむことができた。そして・・・オリジナルのショットグラス。ガラスの質が上々で厚さも程よく口に当たった時の感触が何とも言えぬ。当分はこれでちびちびと・・・・やることだろう。

それで3種類の原酒の味は?・・・・・

そんなもの、私の腕で表現できるわけがない・・・ただいえるのは、これらをどのようにか組み合わせ、さらには上述の水を加えることにより、下のような珠玉の滴りが出来上がってくる・・・ということである。

 

帰郷の記・・・多賀城(捕逸)

万葉集 旅のこと 歴史のこと

前回は私が子供のころからその地を踏むことを夢見ていた古代の城柵、多賀城について書いた。実はその際にもう少し触れておきたかったことがあるのだが、文の構成上どうしても入れることができなかったことが二つあった。よって今回は捕逸と銘打って、その二点についてお話ししたいと思う。

一つ目はこれ。

[caption id="attachment_7545" align="alignnone" width="226"]IMG_20160110_134254 多賀城碑[/caption]

多賀城碑である。

多賀城碑は、前回の記事でも紹介した多賀城南門にほど近い場所に、明治8年に建てられた覆堂に守られ、ひっそりと立っている。銘文には以下の文字が彫られており、正史には語られぬ多賀城創設のいきさつを今に残している。

Tagajo Stele これをできる限り忠実に再現しようとすれば、次のようになる。

 多賀城

                     去京一千五百里                      去蝦夷國界一百廿里                      去常陸國界四百十二里                      去下野國界二百七十四里                      去靺鞨國界三千里

西

此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也                                          天平寶字六年十二月一日

まずは多賀城の位置について述べ、続いて設置に関するいきさつが記されている。あまり構文自体はそう複雑ではなく、詳しい解説を必要ともしないであろうが、いささかわかりにくい語もあるので、蛇足ながら少々の注を加えてみよう。

まずは多賀城という言葉。この言葉は続日本紀宝亀11年(780)に初めて見ることができるが、「多賀柵」という言葉ならば、続日本紀天平9年(737)に見ることができる。続いて中央部の一番上にある「西」の文字。このような碑額に方位を示すものは類例がなく、「西」の文字の意味ははっきりしない。ただし、この碑面はほぼ真西に向けて建てられている。

ついで「去京」は「京を去ること」と読み、平城京からの距離を示す。蝦夷国界」とは蝦夷国との境界を示す。蝦夷国境を、宮城県桃生郡の辺とする考えと、岩手県一関、あるいは衣川とみる考えがあるが、桃生郡であると考えると、ちょいと近すぎる。靺鞨ばっかつ国」とは隋・唐の頃、中国東北部に居住した農耕漁労民族が構成していた国々。一般的には渤海ぼっかい国(これも靺鞨族の国)に属しない靺鞨族を指したものかとみられている(広く渤海国を含んだという考えもある)。ちょいと国際的な碑文である。

神亀元年は多賀柵創建の年724年。按察使あぜちは、奈良時代に諸国の行政を監察した官。「鎮守将軍」蝦夷を鎮めるために陸奥国に置かれた軍政機関「鎮守府」の長官。鎮守軍は、按察使および陸奥守兼任が多かった。大野東人奈良時代の武人。養老4年(720年)に発生した蝦夷の反乱後、蝦夷開拓の本拠として多賀柵を築く。その後陸奥鎮守将軍に任じられ、後に鎮守将軍も兼ねる。天平9年(737)には多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請、奥羽山脈を横断し男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。この功績もあって天平11年(739)、大養徳守もを兼ねるようになっていた東人は参議に任じられる。天平12年(740年)9月に勃発した藤原広嗣の乱の際には広嗣を討伐。天平13年(741年)藤原広嗣の乱を鎮圧した勲功により従四位上から三階昇進して従三位に叙せられる。旧都平城京の留守役に任じられる。天平14年(742年)11月2日薨去。最終官位は参議従三位「東海東山節度使東海道東山道の「節度使」。「節度使」は奈良時代、唐制にならい、地方の軍政と防備を任務とした臨時の職。天平4年(732)と天平宝字5年(761)とに2回置かれた。「藤原惠美朝臣朝獦えみのあそんあさかり藤原仲麻呂の4男。仲麻呂恵美押勝と名告るに合わせ、藤原惠美朝臣とした。最終官位は従四位下参議。「修造」とは、つくろいなおすこと。修繕。修復。天平宝字六年」は762年。多賀城修造の年を示す。「十二月一日」はこの碑の建立の日であろう。

この碑については、江戸時代から創建年代やその真偽について語られてきたが、現在は近年の発掘調査の結果などから碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立と判断されている。碑の高さは196cm、最大幅が92cmで一番分厚い部分では70cmの厚みがある。江戸時代(万治・寛文の頃1658~1673)に土中から掘り出されたか、または草むらに埋もれていたのを掘り起こされたらしく、今は上記の如く明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が文字を隠すほどの苔で覆われていたことが芭蕉の言葉により知ることができる。

つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。

奥の細道

ここで「つぼの石ぶみ(壺の碑)」と言う語が出てきたが、この語については平安時代末の歌学書袖中抄に次のようにある。

いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有 日本の東のはてと云り 但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り 信家の侍従の申しは石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり 其所をつぼと云也 それをつぼといふ也

ここで、「田村の将軍(坂上田村麻呂)」が、「日本の中央」と「書付た」のは、確かに「陸奥のおく(蝦夷地)」は「東の果て」ではあるが、蝦夷には多くの島々があるので、実質的にはここが日本の中央であると田村麻呂が判断したのであろうと、袖中抄の著者藤原顕昭は述べているが、正しい理解であると言えるであろう。

正しくはこの多賀城碑が「つぼの石ぶみ」であるかどうかは、はなはだ疑わしく、そこに記述してある文も多賀城碑のそれと袖中抄にあるそれとではかなりの隔たりがあるゆえ、私なども全くの別物と考えているが、袖中抄以降この言葉が「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」との内容の歌を詠む際の歌枕となり

陸奥の おくゆかしくぞ おもほゆる つぼの石ぶみ そとの浜風

西行・山家集

石ぶみや つかろのをちに 有りと聞 えぞ世中を 思ひはなれぬ

藤原清輔・清輔朝臣集388番

陸奥の いはでしのぶは えぞしらぬ ふみつくしてよ つぼの石ぶみ

源頼朝新古今集1786

のように後世に歌い継がれる中、江戸時代になって土中から掘り出され衆目に晒された多賀城碑は、その発見された場所やこれまで地中にあってその存在すら知られていなかったことから、「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」という意味で使われた歌枕「つぼの石ぶみ」と混同されるようになったのではないかと思われる。

なお、袖中抄に言うが如く「日本中央」と書かれた碑は1949年に青森県東北町にて発見されたが、これもまた坂上田村麻呂がこの地まで到達したとの記録・伝承はなく、袖中抄にある「つぼも石ぶみ」であるかどうかの判断が下されてはいない。

続いて触れておきたいのは、前回の記事に書いた

・・・そこには坂上田村麻呂が威風堂々たるさまで歩いていたであろう・・・そしてもう歌うことを止めた大伴家持が遠くを見つめながら佇んでいた・・・かもしれない。

という一節についてである。二度にわたって東征し、数多くの軍功を上げた坂上田村麻呂は別として、歌人大伴家持の名がどうしてここにあるのか・・・疑問をお持ちになった方がおられるかもしれない。数多くの歌を万葉集に残し、その繊細優美な歌風は構成の王朝歌の基礎を気づいた・・・あるいは中古・中世を飛び越えて近代の憂愁を歌った・・・とも言われる歌人の姿を、かくも辺境の地多賀城のしかもどちらかと言えば殺伐としていたであろう戦の庭に幻視しなければならないのか・・・・そんなふうにお思いのことかと思う。

しかしながら「歌人家持」は、大伴家持という人の一側面でしかなかったことも我々は知らなければならない。家持は、大和朝廷草創の頃から武門の家として天皇家に仕え、歴代の高官を排出した大伴宗家の嫡流であったのだ。そして、天平期以降の度々の政争をくぐり抜け、従三位中納言東宮大夫陸奥按察使持節征東将軍の高位まで駆け上った政治家であり武人であったのだ。

その最晩年にあって陸奥按察使持節征東将軍の任にあった家持は、延暦4年(785)8月28日、その任地にあって生涯を閉じた。続日本紀はその死を次のように記す。

中納言從三位大伴宿祢家持死。祖父大納言贈從二位安麻呂。父大納言從二位旅人。家持天平十七年授從五位下。補宮内少輔。歴任内外。寳龜初。至從四位下左中弁兼式部員外大輔。十一年拜參議。歴左右大弁。尋授從三位。坐氷上川繼反事。免移京外。有詔宥罪。復參議春宮大夫。以本官出爲陸奥按察使。居無幾拜中納言。春宮大夫如故。

人あって言う・・・家持が陸奥按察使持節征東将軍(先に鎭守將軍)に任じられたのは、齢60を越えた頃。しかもその時彼は参議從三位春宮大夫の高位にあった。くわえてその任期中に参議から中納言に昇進も果たしている。そんな人物が果たして僻東の任地にわざわざ赴いたであろうか・・・これは、当時良く行われた遥任であって、家持は都にあってその任務を他に委ねていたのではないかと・・・

しかし前例はある。他ならぬ家持の父、大伴旅人である。旅人は60を越えた齢になって任じられた太宰府の地に実際に足を運び執務している。この父の太宰府下向に際しては、家持も筑紫の地に下っていたと考えられており(下向の時期については家持が後から下ったとする)、その父の執務をつぶさに見ていたはずである。そのような経験のある家持が父と違う道を歩むとは思えない。

しかも家持はその死の年の4月次のような建議を天皇に対し言上している。

中納言從三位兼春宮大夫陸奥按察使鎭守將軍大伴宿祢家持等言。名取以南一十四郡僻在山海。去塞懸遠。属有徴發。不會機急。由是權置多賀。階上二郡。募集百姓。足人兵於國府。設防禦於東西。誠是備預不虞。推鋒万里者也。但以。徒有開設之名。未任統領之人。百姓顧望。無所係心。望請。建爲眞郡。備置官員。然則民知統攝之歸。賊絶窺之望。 中納言從三位兼春宮大夫陸奥按察使鎭守將軍大伴宿祢家持等まうさく。名取より以南みなみ一十四郡はりて山海に在りて、を去ることはるかに遠し。徴發のこと有るに属りて、機急に會はず。是に由りてりに多賀、階上しなのへの二郡を置き、百姓を募り集めて、人兵を國府に足らし、防禦まもりを東西にまうく。誠に是れあらかじ不虞ふぐに備へて、さきを万里にすすむるなり。但しおもひみるに。いたづらに開設の名有りて。未だ統領の人を任することをえず。百姓顧望かへりみて、心を係くる所無し。望みはくは。建てては眞郡と為し、官員を備へ置かむことを。然れば則はち民は統攝とうせいくゐを知り。賊はの望を絶たむ。

有名無実になっている仮の「郡」を、正式な「郡」としてその実効性を高めることを提案する一文である。これは・・・多賀城からはるか「一千五百里」離れて、他者にその任を委ねていたものの言葉ではない。さらには・・・万葉集の巻17~20において、歌日記とも呼ばれるほど詳細に日常を記した家持の几帳面さは・・・家持はその任務を忠実に果たしながら、多賀城の地にて生涯を閉じたのだ・・・と、私に思わせてならないのである。

帰郷の記・・・多賀城

旅のこと 歴史のこと

2016年1月10日、私は幼い頃から憧れ続けていた場所にようやく立つことが出来た。それは確か小学校の5年生か6年生の頃のことであった。私は父の書棚から背表紙に「日本の歴史」と書かれた3冊の箱入りの本を見つけた。時代劇などを通じて少なからぬ興味を歴史というものに抱いていた私は、そのうちの一つを迷わず手にとって幾頁かめくってみた。細かい文字で・・・しかも小学生にはいささか難しすぎるような漢字ばかりの文章であった。

それは中央公論社刊「日本の歴史 第一巻 神話から歴史へ」と題された一巻であった。歴史好きの方なら誰もがその名を知る井上光貞氏によって書かれたその一冊はすぐさま私を、この国の古代の虜とした。引き続き「第2巻 古代国家の成立」 「第3巻 奈良の都」を読んだ私は、その時・・・将来は大和に暮らし、地面を掘って人生を送るんだと心に決めた(決めたとおりに人生をおくれないのは人の世の常、まあなんとか大和に移り住むことだけはなんとかなしとげた)。

その舞台となるのは、古代のことであるゆえ、今私が居住している大和が中心であった(特に第2巻・第3巻)。けれども私はそんな中に、この国の始まりの時期の空気に触れることが出来る場所が、自分の住む宮城にもあることを知った。

多賀城である。

多賀城は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵である。奈良時代から平安時代陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。はじめ陸奥国府は今の仙台市太白区にある郡山遺跡であったと推定されているが、神亀元年(724)、按察使大野東人が今の場所に国府を移しこの城を築城したとされる。築城後は鎮守府もここに置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵なども設置されて、それらの全てが城柵で囲まれていたという。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、東国における律令支配の拠点としての役割を担っていた。

小学生の私はそんな場所に行ってみたいと強く願い始めるようになった。が、所詮は小学生の身。1人ではどうにもならぬ。けれどもそこに連れて行ってくれるはずの父は、当時結構景気がよく・・・ということは仕事が立て込んでいた、私を遺物も何も残っていないようなそんな場所に連れて行ってはくれなかった。中学校になってもさして事情は変わらない。私の通っていた中学校は、親の同行無しに校区外にでることは許しておらず、校則を遵守することをモットーとしていた真面目な私(笑)はやはり1人でそんな場所に出かけることはなかった。高校では・・・父親が少々暇にはなってきたが、今度は私がひたすら野球に明け暮れていた。

そして大学・・・私は大和の人となってしまい・・・今に至っており、小学校の頃に憧れた多賀城の地に足を運ばぬままこの日になってしまったのである。

この日は瑞巌寺を訪れたあと、蔵王の麓にある遠刈田温泉に宿を取る予定であった。午後からは結構時間が空いている・・・しかも、遠刈田への道の途上にこの古代の城はある・・・ということで、私はようやく長年の夢を果たすことにした。

松島から車を走らせることおよそ30分。郊外のほとんど何もない緩やかな丘陵上に多賀城はあった。

車を降りた私は早速、その緩やかな丘陵を昇ったりおりたりしながら、最初にその南門跡に立った。

[caption id="attachment_7536" align="alignnone" width="300"]IMG_20160110_133506 多賀城復元模型[/caption]

中央ややや下部の赤い点がいま私が立っている南門跡である。ここから北に、政庁に向かってまっすぐ伸びているのが

[caption id="attachment_7538" align="alignnone" width="300"]IMG_20160110_134259 南北大路[/caption]

さらに近づいてその南北大路の先の小高い丘の上に、中門がありその内に多賀城の中核はあった。果たしてその中は・・・それは私の拙い写真より、このパノラマを見ていただいた方が、よりこの場の雰囲気を味わえるというもの・・・

政庁跡360VRパノラマ

どうだろうか・・・今はその礎石しか残ってはいない・・・空漠とした場所ではあるがひとたび想像の翼を広げれば、この地を闊歩したであろう古代官人達の姿が浮かんでくるようである(これは現在の大和の遺跡たちの多くも同じである)。

・・・そこには坂上田村麻呂が威風堂々たるさまで歩いていたであろう・・・そしてもう歌うことを止めた大伴家持が遠くを見つめながら佇んでいた・・・かもしれない。

帰郷の記・・・瑞巌寺(下)

旅のこと 歴史のこと

・・・と、右に折れて突き当たりの所に写真のような塚が目に入った。

[caption id="attachment_7524" align="alignnone" width="300"]IMGP5193 鰻塚[/caption]

鰻塚である。鰻塚は、大正12年8月16日に建立されたもので、「鰻塚」の文字は瑞巌寺第126世松原盤龍老師が揮毫したもの。裏面には当時、寄付金を出した北海道から東京までの関係者(蒲焼店、関係卸問屋等)の126名の名前が刻みこまれているそうだ。当時松島湾においては天然鰻が多く獲れ、多くの人々の口腹を満たしていた。これは、その犠牲となった鰻たちを弔うためのものだという。そして、その供養の祭りは今も続き、毎年、鰻塚の前で法要が行われ、その後に松島湾に鰻の放流が行われているらしい。

鰻塚を左に折れて、城壁のように続く小山沿いの道で伽藍へと向かう。

[caption id="attachment_7525" align="alignnone" width="300"]IMGP5197 瑞巌寺岩窟[/caption]

そこには・・・写真のような異様な光景が広がっている。洞窟遺跡群である。これらの洞窟は、今は臨済宗妙心寺派に属するこの寺が、かつて天台宗に属していた頃のものと伝えられてはいるが、そこにある供養塔が江戸時代以降のものしかない事から江戸期に掘られた洞窟群であると今は考えられている。

すべての洞窟内は塔婆・五輪塔・戒名等が無数に刻まれおり、この洞窟達が供養場として使用されていたことを窺わせる。これらの洞窟内の供養塔で最も古いものは、寛永13年(1636)に伊達政宗に殉死した佐藤内膳吉信のものであると確認されているが、供養された者には仙台範囲外の人物も確認されているという。かつて松島が「奥州の高野」と呼ばれ、亡き人の供養が営まれた場所であったことのなごりがここにあるのであろう。

さて参道を進み私がたどり着くのは瑞巌寺中門。伊達家の家臣が藩主に変わってこの寺を参詣する際に用いられた門で、藩主、並びに高貴の人の参拝には左手にある御成門がもちいられた。また庶民の参詣には右手庫裏に連なる登竜門が用いられたのだという。

[caption id="attachment_7526" align="alignnone" width="300"]IMGP5210 中門[/caption]

なお、政宗は中門の設置に当たり、この門を通して参道の杉の木立の間に中秋の名月を見えるように本堂の位置を決めたと聞く。

ご覧の通り、工事中につき本堂及びそれに連なる建造物は拝見することが出来ない。やむなく唯一開放されている本堂の東に隣接する庫裏へと向かう。本来ならば本堂内に鎮座する御仏の数々が、今この庫裏にいらっしゃるのである(ただしその障壁を彩る絢爛たる桃山画はさすがに移動できない。そのうちの一部の複製を見ることが出来るのみである。)。

[caption id="attachment_7527" align="alignnone" width="300"]IMGP5223 庫裏[/caption]

庫裏に入るとまず目に入るのが彩色鮮やかな聖観音像。

[caption id="attachment_7528" align="alignnone" width="300"]IMGP5219 光雲観音[/caption]

高村光雲の手によるものだ。いつも私が大和の寺々でお会いする仏様達とはかなり趣を異にしているが、これはこれでなかなか気品があり、手を合わせ拝するに充分な気品を備えている。像全体の優美な曲線だけではなく、細部まで行き届いた意匠は、光雲の思い描くところの「美」なるものを我々に示してくれている。

[caption id="attachment_7529" align="alignnone" width="300"]IMGP5212 本堂[/caption]

続いて同庫裏から本堂前に抜けるための門、登竜門から見た本堂。先にも述べたように本堂は現在大修理中にて、今日はここから撮影するのみでご勘弁願いたい。

[caption id="attachment_7530" align="alignnone" width="300"]IMGP5213 臥竜梅[/caption]

左手に見える木の枝は、臥龍梅。政宗公が文禄2年(1593)に朝鮮に出兵した折、持ち帰ったもので、慶長14年(1609)の寺落慶の際に、本堂正面に正宗が手ずから植えた梅だという。本堂に向かって、右が紅梅、左が白梅で、地面を這うような姿からその名がつけられたという。

[caption id="attachment_7531" align="alignnone" width="300"]IMGP5215 障壁画と御本尊[/caption]

続いては当時のご本尊、聖観音菩薩。本来は本堂に御鎮まり下さっているが、なにぶん現在本堂は何かとかまびすしい。平成の大修理が終わるまでは、こちら・・・庫裏の北側に設えられた仮の書院に仮住まい・・・ということだ。

[caption id="attachment_7533" align="alignnone" width="300"]IMGP5216 聖観音像[/caption]

瑞巌寺104世夢庵が江戸時代の中頃に記した松島諸勝記には、弘法大師の作とあるが、室町時代後期のものと推測されている。(ただしこれも断定はしがたいとのこと)。青銅製であることがその特徴としてあるが、室町時代、仏像は木造が主流で他にあまり類を見ないものだという。さらには青銅製の像は基本的には、頭から足先まで一つの塊として造るのが通常であるに対して、この仏様は両肩が外れるようになっている。おそらくは持ち運びの便を考えてのものかと思われるが、さだかとは言えない。

さて・・・小一時間ほどこの奥州随一の古刹内を巡り歩いた。寺の沿革などの詳細は当寺HPをご参照願いたいが、最後にこの寺を拝観し終わっての印象について、少々申し上げたいことがある。

この寺の総門が薬医門となっているとお話ししたときのことを思い出して欲しい。その時に私は

別に「矢喰い門」とも言われ、矢の攻撃を食い止めるためのものであったという説もある・・・が、俗説に過ぎない考えとは言え、奥州随一の大名伊達政宗が建立したという事実はこの考えを魅力あるものに思わせてくれるが、そのことはここでは触れずにおこう

と書いたが、ここでそのことについてもう少し立ち入ってみたい。

俗説に過ぎないとも考えられる「薬医門」=「矢喰い門」説であるが、この寺の立地を考えた時、妙にこの考えが真実味を帯びてくる。お時間のある方はココをクリックして欲しい。国土地理院の地形図である。これを拡大すれば瑞巌寺の位置は容易に探すことが出来る。

訪れたことのある人ならばご記憶にあるかと思うが、瑞巌寺は三方を崖に囲まれ、その様はさながら天然の要塞のごときである。さらには瑞巌寺が所在する松島の地もまた三方が切り立った崖の多い丘陵に囲まれており、そして残された一方は海である。そこは幾つもの小島が散在する松島湾・・・仮に海から船にて外敵が侵入してきた際にはこれらの島影にいくらでも伏兵を配し、迎撃することが可能である。しかも潮流も複雑で、岩礁も多い。かなりこの湾の地形や潮流に詳しいものでなければ、操船も覚束ないはずである。

北東は幾分開けた土地のように見えるが、高城川以東手樽にいたるまでは、かつて手樽浦(戦後干拓によって農地になった)と呼ばれた浅海であり、深々とした干潟を形成していたものと思われ、仮に潮が引き陸地が生じていたにしろ、こちらからの侵入は不可能に近い・・・どこからも、攻めようがないのだ(なおこの地形図の左上の「機能」とあるボタンを使えば、この地図の3D図を見ることが出来、これから私が述べようとしていることがさらに実感できる)。

1604年から5年の歳月をかけて正宗はこの寺を今見る形に修復するが、居城である仙台城から離れた松島の地になぜ伊達家の御廟を作ろうとしたのか・・・そこに、瑞巌寺仙台城の出城であるとする説が生じる由縁がある。以下、その瑞巌寺出城説についていささか思うところを述べる。歴史学には全く疎い私が、しかもさらに専門からは遠い戦国史について云々する資格に乏しいことは重々承知している。したがってここからあとはそんな私のたわいのない妄想と受け取っていただき、お笑いぐさにでもしていただければ幸いである。

正宗の居城仙台城は戦国期において典型的な山城であるが、彼がこの城を築き住み始めたのは慶長6年(1601)。関ヶ原の戦いの翌年である。戦国もほぼ終了し、大名達の居城の主流は平地に設けられることがほとんどになってきた。しかるにわざわざ時代遅れの山城を正宗はなぜ築いたのか?

正宗が死を前にしてまわりのものに「仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬ。自分の死後、平城へ移るように・・・」と奨めていたらしいが、この言葉を深読みすれば、正宗は自らの末期の際まで仙台城が山城としての機能を発揮する機会があるだろうと踏んでいた・・・とも言えなくはない。家康にも一目置かれ、3代将軍家光からは「伊達の親父殿」と尊敬され、その死に際して江戸や京の町においても喪に服する(御三家以外では例を見ない)ことを命じられた、・・・そんな人物がその死の間際まで、事が起こることを考えていたのだ。

正宗の言行録である正宗公名語集(昭和10年無一文館書店発行本p40)に

大御所(家康)駿河の御殿にて御病氣重き折節(元和二年二月)、悪き者の申分にて、已に其方謀反のよし其聞へ候間、我等も御病氣にもかまはず奥州へと心掛け候折節・・・

とある。これは死の床にあった徳川2代将軍秀忠が政宗を枕元に呼び述懐したもの。家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた・・・と秀忠は当の政宗に語っていたのだ。正宗が謀反の疑いをかけられたことはこの時だけではなく、秀忠の代にあってもしばしば伊達討伐を秀忠は重臣達に諮問していたほどである。

徳川幕府の成立以降にあっても正宗の心の裡に「天下取り」があったと言うことは、しばしば歴史愛好家の語るところではある。その語るところの是非はともかくとして戦国の世を生き抜いた正宗ならば、幕府にとって自分がどのような存在であるかは充分に自覚出来ていたと思う(自分のことを「伊達の親父殿」と呼んだ家光の時代にあっても、それは家光のみの意志であって、幕府総体の意志とまでは言い切れない)。

ゆえに正宗は晩年風雅の道や美食に明け暮れ、「天下取り」の意志など微塵も無きが如くに振る舞っていたと言われるが、それとて世を欺く行為と言われれば否定することは難しい。ようするに、現代の歴史愛好家の思うような正宗に対する期待は、当時の幕府の側にも当然あって(むろんこれは「期待」ではなく「危惧」)、正宗が野望を抱こうと抱くまいと、幕府はいかようにも難癖のつけることは可能であっただろう。

となれば、正宗としては常に有事のための準備は怠ることが出来なかったであろう。この間の子細を記した軍記物「東奥老子夜話(仙台叢書巻8)」※1には政宗が幕府軍が仙台藩内に侵攻してきた際の図上演習・・・作戦立案を行っていたとさえ言われている。そして・・・瑞巌寺はその作戦の中でいかに位置づけられているのか・・・

正宗の作戦は、仙台の城下の手前、名取川を決壊させ、水攻めにより幕府軍の機動力を削ぎ、仙台城の建つ青葉山や周辺の山々によって構成される谷間の狭隘地におびき寄せこれに攻撃を仕掛ける・・・というものであった。さらには幕府軍後方で一揆を扇動し、後方を撹乱するつもりだったとも考えられる。

そして、もしその戦いに敗れるようなことがあれば・・・

万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし。

この一文は瑞巌寺出城説を否定する(むろん「東奥老子夜話」の記述を全面的に信頼することは出来ないと思うが)。彼はここを戦いの場として考えていたのではないのだ。自らの今際の際でさえ、伊達男の名にふさわしく妻子にも死に顔を見せなかった正宗である・・・彼は己・・・伊達政宗という人間にふさわしい死に場所を定めておいたのだ。この寺の絢爛豪華な装飾はそのためのものだったのだ・・・目映いばかりの桃山画に囲まれたその中で、心静かに自らの腹をかっさばこうと・・・この伊達男は考えていたのだ。戦は武士にとっての晴れ舞台。しかも・・・想定される戦は天下の徳川を敵に回した大舞台である。その幕引きの場は・・・それにふさわしい場所でなければならない。

このように考えてみると・・・瑞巌寺の置かれた立地、そして要塞と見まごうばかりの瑞巌寺のつくり(上に述べた薬医門の採用だけではない。この寺の用材の板は通常の寺院建築とは比べものにならない分厚いものが用いられている)は、そんな場合に敵を食い止め、少しでも時間を稼ぐためのものであったように思われてならないのである。

※1 「東奥老子夜話」は手元にもなく、近隣の図書館にも見つけることが出来なかったため、ウィキペディア「伊達政宗」の項の説明参考に書いた。引用文は当該の説明文からの孫引きであることお詫びする。なお仙台叢書はココからその一部(巻6まで)を読むことが出来るのでご紹介しておく(ただしエンコードは「日本語shift_jis」)。