大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

歴史のこと

若草山北西麓より・・・

「三笠山」と言えば誰もが百人一首の 天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 阿倍仲麻呂 を想起するだろう。ここでの「三笠山」は春日大社の東に聳え、その神の宿る山として知られる御蓋山みかさやまをさすが、実は奈良にはもう一つの「三…

帰郷の記・・・多賀城(捕逸)

前回は私が子供のころからその地を踏むことを夢見ていた古代の城柵、多賀城について書いた。実はその際にもう少し触れておきたかったことがあるのだが、文の構成上どうしても入れることができなかったことが二つあった。よって今回は捕逸と銘打って、その二…

帰郷の記・・・多賀城

2016年1月10日、私は幼い頃から憧れ続けていた場所にようやく立つことが出来た。それは確か小学校の5年生か6年生の頃のことであった。私は父の書棚から背表紙に「日本の歴史」と書かれた3冊の箱入りの本を見つけた。時代劇などを通じて少なからぬ興味を歴史…

帰郷の記・・・瑞巌寺(下)

・・・と、右に折れて突き当たりの所に写真のような塚が目に入った。 [caption id="attachment_7524" align="alignnone" width="300"] 鰻塚[/caption] 鰻塚である。鰻塚は、大正12年8月16日に建立されたもので、「鰻塚」の文字は瑞巌寺第126世松原盤龍…

万葉の桜井・・・磐余

磐余いはれ 「天ノ香久山の東北麓にかつて存在した磐余池付近から西方に及ぶ地域。大和の平野部から宇陀の山間部への入り口に位置する。」とは日本地名大辞典(角川出版。以下、地名辞典と略す)の説明。他の多くの説明によれば、奈良県桜井市南西部の池の内…

万葉の桜井・・・海石榴市

一昨年だったか、人様の前で桜井の万葉というテーマで話をしなければならぬ羽目になり、大慌てでその資料を作った。上のメニューにある桜井の万葉というボタンに収められたいくつかのページはその時に作ったものである。が、大慌てで作ったがゆえ(なにせお…

大伴旅人と藤原房前・・・捕逸

5回にわたって奈良朝前期における藤原氏と大伴氏の関係について、思うところをくだくだしいまでに述べてきた。ここまでお付き合い願えた方には本当に何とお礼を申し上げて良いか分からないが、そこには従来いわれているような新勢力と旧勢力との反目や排除し…

大伴旅人と藤原房前・・・5

長く際限のない妄想にお付き合いいただいている。はじめは2回ぐらいで終わってしまう予定であったが、書くほどに妄想は広がり皆さんにはダラダラとした戯言にお付き合いいただいている。それもあと2回ほどで終わりそうになってきた。またかとお思いであろう…

大伴旅人と藤原房前・・・4

鎌足に続いて藤原氏で名をなすのはご存じ藤原不比等である。不比等は鎌足の第2子。11歳の時、父鎌足が死去し、有力な後ろ盾を持たずに出仕した不比等は下級官人からのスタートを余儀なくされた。阿閉皇女(後の元明天皇)付き女官で持統末年頃から不比等と婚…

大伴旅人と藤原房前・・・3

前回は、この度私が話題として取り上げている藤原氏と大伴氏の関係について、さらには大伴旅人の筑紫下向の意味について林田正男氏の御論文を援用しつつ、この件に関して奈良時代前期の政治的状況について、従来いわれているような長屋王を中心とした旧勢力…

大伴旅人と藤原房前・・・2

前回の記事において私は通常行われている奈良時代前半の最大の政変である長屋王の変についての、 不比等死後、長屋王に政権を奪われた藤原4兄弟は、聖武天皇夫人光明子を皇后にしようと画策していたが、皇族以外からの皇族以外からの皇后は前例がないとして…

大伴旅人と藤原房前・・・1

前回の記事では時の大宰帥だざいのそち(大宰府長官)大伴旅人と中衛府大将藤原房前の間に交わされた心温まる贈答を紹介した。そしてその末尾に、この贈答にいささかの疑念が私にはあり、以降の記事においてこの疑念に対しての私なりの理解を開陳してみたい…

大伴淡等謹状  梧桐日本琴一面

かなり以前・・・万葉短歌僻読が虚見津という名で更新されていた頃、以下のような記事を載せ、天平の初年、大伴旅人と藤原房前の間で行われた、心温まる交流を紹介したことがある。この記事は虚見津を改訂する形で万葉短歌僻読というブログを立ち上げた時に…

続 お彼岸は寺参り

23日は彼岸の中日、前日の飛鳥寺に続いて奈良町にある元興寺にお参りをした。なかなか信仰深いことである。 昨日は飛鳥寺について 飛鳥寺・・・現在、正しくは現在は安居院と呼ばれているこの寺は、かつて正しくは法興寺・元興寺とも呼ばれた。 と紹介したが…

馬と鹿の話

法隆寺についての報告を数日続けている。その終了まであと二日はかかるかと思うのだが、今日は趣向を変えてみたい。というより、今日はどうしても司馬遷のこの一文を皆さんにお読みいただきたくて仕方ない。 趙高、乱を為さんと欲し、群臣の聴かざるを恐る。…

法隆寺に行く・・・2

南大門をくぐり抜け、きれいに掃き清められた参道をまっすぐに進む。晴れ渡った秋空はあくまで清々しく、これから御仏を詣ろうとする私の世塵を祓い去ってくれるような青さだ。南大門から参道はほぼ100m、そう高くはない石段を登り、ほどなく中門に突き当た…

室生寺に行く・・・下

急な石段・・・鎧坂を上り詰めた先に見えてくる端正な寄せ棟造り、柿葺きの建物が金堂である。 桁行5間、梁間4間の正堂に、梁間1間の礼堂がとして付いている。このお堂は段差のある地盤に建っており、礼堂の部分は斜面に張り出し、床下の長い柱で支えられて…

大古事記展と正倉院展

さて・・・上に「私のような翻刻の苦手なものにとってはところどころしか判読できない。」とは書いたが、そこは天下の天理図書館、用意周到である。あらかじめ全作品(「作品」と いうのも当たらないか)の翻刻文を用意して下さった。おかげで、家に帰ってか…

田原の里へ・・・二つの御陵

太安万侶の墓より望む田原の里である。茶畑と、稲田のほかは何も視野に入ってこない、そんな静かな山里である。時折訪れるハイカーのほかは、里人以外の姿はあまり見かけない・・・無論、この里の主要道である県道47号線・80号線には、ときおり自動車が走り…

田原の里へ・・・太安万侶の墓

峠の茶屋にて昼食を終えた私たちはこの日の目的地へと向かう。石切の峠もその頂点を越えているから、あとは緩やかな下りをゆるゆると歩みを進めるのみだ。距離にして4㎞弱。時間は1時間もかからないほどの場所に太安万侶の墓はある。 狭い山あいの道を歩いて…

田原の里へ・・・滝坂の道(下)

いよいよ滝坂の道は後半に差し掛かる。正確な定義は知らないが、ここから地獄谷を越えて石切峠を越えるあたりまでが滝坂の道と考えて大過はないかと思う。朝日観音から200m程能登川をさかのぼると道は二手に分かれる。その分かれたところに、旅人を優しく迎…

田原の里へ・・・滝坂の道(上)

小説の神様が「暗夜行路」を執筆したという旧居をあとにして私たちは東へ・・・春日山と高円山の谷間に向かい東に歩みを進める。道は何時しか薄暗い木立の中に入る。そして道はその木立の中へと延々と続いている。 柳生街道に入ったのだ。 柳生街道01 posted…

八幡様と応神天皇・・・下

「本来は外来神である八幡様がなぜ応神天皇に擬せられているのか。」という、私のまことに個人的な疑問について、2回にわたって愚案を提示した。提示したとは言っても、私が集めえた資料を提示し、あとは皆さんおご想像のお任せするという極めて無責任な記…

八幡様と応神天皇・・・中

応神天皇の出自に関わって古事記に1つ興味深い説話がある。次回はその説話を紹介してみたいと思う。 と前回の記事を結んだ。であるから、今回は約束に従って以下にその説話の全容を示す。かなり長い引用にはなるがお付き合いいただきたい。もし、面倒くさい…

八幡様と応神天皇・・・上

南都七大寺の一つ大安寺についてのレポートの後、その鎮護の社として大安寺の南に位置する大安寺八幡宮についてのレポートを皆さんにお読みいただいた。続いてその八幡様を訪れた際にふと生じた疑問について述べた「八幡様と鳩」という一文も2回にわたって…

八幡様と鳩・・・下

さて、源氏の守り神であり、軍事の神ともいえる八幡様がなぜ安産の神となり得るのかについては前回のごとくである。今回に私に与えられた使命は、なぜこの神社と鳩とのかかわりを考察(?)することにある。 そもそも事の始まりはこの写真にあった。 狛犬さ…

持統天皇六年 伊勢行幸

先ほど、私の別に運営するブログ「万葉歌僻読」というブログに あみの浦に 船乗りすらむ 娘子(ヲトメ)らが玉裳の裾に潮満つらむか 今頃あみの浦で船遊びをしているであろう乙女たちの美しい裳の裾に潮が満ちていりことであろうか・・・ 柿本人麻呂・万葉集…

天武天皇と薬師寺、大和三山と藤原京・・・そして・・・

以上、長々と述べ来ったことをまとめれば次のようになるだろう。 薬師寺が、大和三山の一つ、畝傍山を強く意識して建立されたと言うこと そこには天武天皇の意志が反映されていたと言うこと それは天武天皇が執心した道教の発想によっていたと言うこと そし…

三山鎮護の思想の源流

前回の記事は、天武天皇がこのような立地に藤原京が造営を企図したことから逆に照射して、大和三山が道教における三神山と意識していたということを立証しようとしたものだった。三山鎮護の思想がその企図の裏に深々と存在していたことを私なりに追求し得た…

藤原京の位置についての小考

藤原京は、694年から710年、平城京にその都としての座を渡すまで幾人かの天皇が天の下をおさめたもうた土地である。かつては、大和三山の描くところの三角形の内側に、大和盆地を南北に走る幹線道路「中つ道」・「下つ道」東西の果てとして、また大和盆地を…