大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

私の通勤路・・・二つの古墳

私は通勤の際に、二つの道を使い分けている。大和平野の東端を南北に貫く国道169号線と、その西に開けた田畑の中を貫く、農免道路の二つである。帰宅を急ぐ人で混雑する帰り道は迷いなく後者を選ぶことが多いが、朝はかなり早く家を出るため、道もすいている。よって使用する道は主要道である169号線ということになる。

自宅を出て、三輪・織田の町中を抜けて、箸墓の後円部をかすめる。程なく左折し、169号線に入る。そのまましばらくの間は169号線を北上するのだが、成願寺町を過ぎた辺りで新出来の県道51号線へとそれる。ここから先はいくら早朝とはいえ、169号線が天理市の市街地に入るため若干ながらも渋滞が予想されるからだ。

セルフサービスのガソリンスタンドとコンビニに挟まれた交差点を右折。いったんは北東を向いた道だが、すぐにまたその進行方向は北へ・・・・その辺りで目に入ってくるのが次の二つの小山だ。

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ここ大和の地においてこのような小山を見つけたら、これは古墳ではないかと疑ってみる必要がある。そして、この二つの小山は、その疑いに応えるかのように紛れもなく太古の権力者の陵墓である。

まずは一つ目の写真。道の左に位置するのはノムギ古墳。そして下の写真、道の右側に位置するのがヒエ塚古墳だ。

ノムギ古墳は以前、全長が63m、後円部の直径が40mに及ぶ前方後円墳と考えられていた。けれども平成8年に古墳の北側で実施された発掘調査において、ほぼ直角に曲がる周濠の角が発見された。周濠が角を持った方形である以上、その内側にある墳墓は方形であるに違いなく、前方後方墳である可能性が高まった。この調査において発見された円筒埴輪や鮪付円筒埴輪ことから、この古墳の築造峙期は3世紀後半であるとされている。

ヒエ塚古墳はノムギ古墳に比べて比較的その原型が保存されており、一見して前方後円墳であることが見て取れる。全長130m、後円部の直径は60m、その部分の高さが10m。前方部は55m、高さは7mの墳丘である。後円部の南側の一部と前方部の北西のほんの少し削り取られている。周濠は、その北側の水田に幅30mほどその痕跡を留め、ここに盾形の周濠がかつてあったと推定されている。出土した遺物がほとんどないため、築造の時期については不明であるとしか言いようがないが、その形態が同地域に存する中山大塚古墳に類似することから、それと同じく3世紀後半の可能性が考えられる。

さて、この二つの古墳の間を貫く私の通勤路、県道51号線は、かなり前から計画されていた道ではあるが開通は予定よりも大幅に遅れ、ほんの10年ほど前したばかりの道である。この道が走る中山町、萱生町前方後円墳12基、前方後方墳5基、円墳7基が集中して存在し、その西端にある大和(オオヤマト)神社に因み大和古墳群と呼ばれている地域であることがその原因となっている。

大和平野の南東部、南から纏向(マキムク)古墳群、柳本(ヤナギモト)古墳群と続く大古墳群の一角を担うこの古墳群はこの地を発祥とする大和政権の遺物として、格別に貴重なものであり、それらのいくつかを破壊し道を通すことに根強い反対運動が在ったからだ。

結局は道を開通させる際にどうしても破壊せねばならぬ古墳に関しては充分に発掘調査した上で最低限の損壊で済むようにとの配慮をすることで今に至った。今私が職場へと急ぐこの道の下にもノムギ古墳、ヒエ塚古墳の周濠部が埋もれている。