大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

「蜘蛛の糸」僻読

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」について書いてみようと思う。

これほど有名な小説に私のようなものが今さら何か言葉を差し挟むような余地が存しているとは到底思えないが、ふと思いたったのでどうしても書かずにいられない。

といっても、この「蜘蛛の糸」の読みについて、あるいはその成立について新たに何か気が付いたなどという新発見であるわけはない。というよりは、おそらく芥川はそんなことは一切そんなことを考えることなしにこの作品を著したであろうところの・・・作者には全くあずかり知らぬ・・・そんな私の勝手な思い付きである。うがって読めばこうも読めるか・・・といった程度の僻読みに過ぎない。そこのところを心してお付き合い願いたい。

ご承知の通りこの小説は大泥棒である犍陀多(カンダタ)がお釈迦様の慈悲によって地獄の渕より救われかけたが、我一人の身が救われようとしたその「無慈悲」が故に再び地獄の渕に転落してしまうという物語である・・・

ある日お釈迦様は極楽の蓮池のほとりを散歩していた時、その池の水越しに地獄のそこにうごめく犍陀多の姿が目に付いた。お釈迦様は思う・・・そういえば、この男、生きている間は残虐非道、どうしようもない男ではあったがたった一度だけ「善い事」をなした。そうちっぽけな蜘蛛ではあるがその命を救ったことがある・・・と。

しかしながら果たしてこれが「善い事」と言えるのか。単に殺生をなさなかっただけではないのか。せざるべき悪行をなさなかっただけではないのか・・・・仮にこれを「善い事」と見なすにしても、彼がこれまで犯してきた罪悪に比すればあまりに些少にすぎないか・・・私にはそんなふうに思えてならない。

お釈迦様はそんな彼を救おうとした。常識的に考えるならば、何故・・・?との疑問を抱かざるを得ない。

・・・・けれども、それだけでも救われるのだ・・・・

そんなふうに私は最近思えるようになってきた。ほんのわずかな善行・・・善行とは思えないような善行ではあっても、それが自らを救う・・・そんなふうに思うようになってきたのだ。ただしである・・・その報いは何も「善い事」だけに対してあるのではない。

「蜘蛛の糸」に即して言えば犍陀多は生前、悪行の限りを尽くし、殺生三昧に明け暮れた彼は無論のことその報いは受けなければならなかった。これはごく当然なことであって、その後、彼は地獄の業火に焼かれる毎日を送ることになる。

そんな毎日を幾年過ごしたことであろうか・・・彼の目の前に一筋の「蜘蛛の糸」が・・・

そう、彼はその段階でおそらくは彼はその生前の罪を償いえていたのである。そして、生前の「善い事」の報いが彼に巡ってきた。それは「蜘蛛の糸」のいごとき細く頼りのないものではあったが、確かに犍陀多の目の前に現れた救いであった。

そう・・・一見救いがたいような・・・そして自らも救われようがたいと思っているような存在であっても、人として生きている、そして生きてきた存在であるならば、本人が意図しようがいまいが、何らかの形でごく些少なものであっても「善い事」をどこかでなしているのだと私は信じたい。ただ、その「善い事」の報いたるべき「救い」を生かすかどうかは、やはり当人の心持次第ということになるように思う。

彼は必死になってそれにすがった。けれどもその糸にすがって彼が極楽に行けたかは皆さんがご存じのとおりである。

こら、罪人ども、この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。

作者の言うところの「無慈悲」な言葉が、ほんのかすかな彼の「善い事」の報いの糸は途切れさせた。「蜘蛛の糸」にすがって極楽に行こうとしていた彼は、その時確かに善行をなしていた。彼が上記のような「無慈悲」な言葉を吐きさえしなければ、多くの亡者が彼と同じように救われたはずである。しかし、彼は・・・この時蜘蛛を救うようには他者を救おうとはしなかった。

そう・・・人は単独で生きうる存在ではない。他者との関係性の上においてのみ存在しうる。他者の「救い」の可能性を否定すれば自らの「救い」を否定することになるのだ。

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