大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

思い出す味・・・石巻「天下一」

休日の昼時・・・外出中などにちょっと小腹がすいて腹を満たしたいと思う時、あなたならどんなお店にお入りになるか?

私の場合、齢、50も過ぎて少々胃腸も衰えてきたせいか、最近はそばだうどんだなどという具合になるが、ちょっと前までこんな時はラーメンと相場が決まっていた。そして・・・その店の広さ、カウンターの向かいに上がる厨房の火柱の熱気、そしてあたりに漂う油やらにんにくやらの香りまでもが30年以上もたった今もなおありありと思い出せる・・・そんな店が、私にはある。

私が通っていた高校はJR仙石線(ただ今津波に被害により途絶中)から南、小高い丘の頂点を越えたところの海に面した斜面に位置していた。まずはじめに高校時代は野球をしていた私にさえ少々きつく感じられるような急な坂道があり、そこを越えるとあとは緩やかな上り下りと2度ほど繰り返せば私の母校がある。当時はまだ大正年間に作られた木造の校舎が残っていた。

確かそのあたりの丘陵を鰐山といっただろうか・・・その東に尾根続きで日和山がある。そして・・・その二つの山を結ぶ直線を底辺とした三角形の頂点に羽黒山がある。標高は50mにも満たなかったであろう。この山の頂には羽黒山鳥屋神社という寂しげな社があり、その裏手・・・北側の斜面には石巻の市内・・・それも繁華街。確か小柳町の方面に向かって長い石段が下っていたかと思う。200段近くはあったろうか、かなり古い段差の小さい石段であった。

普段は野球をしていたが故に夜も遅く、そんな場所に立ち寄ることもなかったのだが、日曜日、それもほんのたまさかに練習が半日で終わったような日にはまっすぐ駅には向かわず、羽黒山鳥屋神社経由でこの石段を下り、この繁華街に向かった。もちろん真昼間だし、それに私は純朴な(笑)田舎の高校生。赤い提灯や白粉の匂いが目当てであるはずはない。

私が目指したのは・・・天井を焼き尽くすかと思われるような火柱の熱気と油とにんにくの香りのするそんな場所であった。

「天下一」

そんな名のラーメン屋だ。注文するのは決まって味噌ラーメン。醤油なんて眼中にはなかったね。ましてや塩なんて・・・育ちざかりの、しかもその直前まで激しく体を動かし腹を空かせている・・・そんな体には味噌のこってりとした味わいが最適だった。味噌は赤みそ。しっかりとニンニクが聞いていた。麺は、あのころの宮城のラーメン屋の多くがそうだったようにちぢれの強い札幌ラーメン風。

そして特筆すべきは・・・その丼の巨大さだ。通常のラーメン店のドンブリの1.5倍は優に超えていただろうか・・・まあ、2倍とは言えないまでも、それに等しいほどの大きさであったように思う。深さ・・・これは通常の店のそれとあまり変わらない。麺はドンブリに比した量ではなく、通常通り一玉。スープの量が多かった(ドンブリが大きいんだから当たり前か)。

そしてその上には・・・麺の量の倍以上は優にある炒め野菜(豚肉少々)。この野菜炒めの量が私たちには魅力的だった。

ちょっとその頃(30年以上前)を思い出して実況してみようか。

「天下一」と染め抜かれた暖簾(ここはちょいと記憶に自信がない)をくぐり、7席ばかりあったカウンターの椅子に座る。足元におもむろに汗の染みた練習着の入ったカバンを置き「味噌、一丁」と注文をする。痩身でなんとなくおとなしそうな、・・・けれども、丈夫そうなそんな兄さん(ぐらいの年齢の人)が「はい、味噌一丁」とかえす。巨大な中華鍋に油を注ぐ。激しい炎に熱せられた鍋は油とともにすぐさま高温になる。そしてその横におかれたざるからまずは玉ねぎ、にんじんの薄切り。ややあってキャベツにモヤシ。そしてピーマンの細切りを順に入れる。そうそう、木耳も入っていたかな?

炎は鍋に入り激しく火柱をあげる。いかにもおとなしそうな兄さんは汗をにじませながら鍋を振る。7,8割がた火が通ったころ鍋の横に配置してある調味料入れから幾種かの調味料をお玉ですくい鍋に放つ。何とも言えない香りがたつ。そしてそこに一気にスープを注ぐ。激しい音を立てて鍋は一気に煮えくり返る。最後に味噌を溶き入れる。もちろん味噌はこの位置に置かれるまでこの店の兄さんの手が入った特製だ。

並行して麺はゆでてある。これだけ具だくさんのスープゆえ先にスープをどんぶりに注げば、具が邪魔になって麺が入らない。だから普通のラーメン屋のように先にスープ、そして麺を入れて、麺の状態を箸で整える、なんて作業は省略だ。麺はあらかじめドンブリに入れてある。そこに煮え滾ったスープを躊躇なく注ぎこむ・・・

ああ・・・もうたまらない・・・いただきまあす・・・

 

・・・ご馳走様・・・後は500円札をテーブルの上において席を立つのみである。


なにせ30年以上のことを思い出しながら描いたものである。記憶違いは多分にあるだろう。もし仮に石巻在住の方の御目にこの拙文がふれる幸いがあったならば、御気づきの点をお教えいただきたい。