大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

行って見たいところ・・・追分温泉3

・・・前回に続く・・

かくして小学生3名と老人1人の湯治生活が始まった。祖母は体調の加減でそうしばしば風呂に入ることができない。私の友人の2人は健康そのもの、湯治の必要などどこにもない。その必要があったのはアトピー性疾患を抱えた私一人だけであった。だから他の3人は、そのお付き合いと言うことになる。私にしてもその疾患をのぞけば体は元気そのもの、そんな小学校6年生に癒すべき疲労の蓄積などあるはずもない。

元気な小学生がこれからの数日、親の目を離れ生活を始めようとするわけだから、3人の話の内容はどうやって遊ぼうか・・・それ以外にある筈がない。学校の教科者やら宿題は3人とも一切持ってきてはいない。

まずは手始めに野球・・・が、バットも持ってきていたのだがそんなに広い平地があるわけではない。やれることと言ったらキャッチボール。すぐに飽きてしまう。おまけにそのうちの一人はあまり野球が得意ではなく(ここは当人の名誉のために誰のことかは明かさない)、私の投げたボールを後ろにそらし、小川に落としてしまった。水量の少ない小川ではあったが、私達が川岸に降りたときにボールは遙か下流に流れ去っていた。なにせ山中の一軒家の宿ゆえ、いくらお年玉で懐中の暖かい私達でもボールを手に入れることは出来ない。私達の遊びの選択肢の一つは儚くも消えた。

次は・・・私がそのころ凝っていた模型飛行機作りだ。竹ひごを組み合わせ薄紙を貼る。プロペラを回すゴム動力をつければそれで完成だ。ただ、その制作に凝っていたことと私の手先が器用なこととは別問題だ。この模型飛行機の翼を作るとき、その先端部の丸みを作るためには蝋燭の火の上にかざすなどして熱を加えなければならない。けれども、この宿にはろうそくなどは持ってきてはいなかった。仕方なく調理場の10円入れれば数分の間ガスの出るガスコンロを使う。一見業務用かとも思えるような巨大なガスコンロだ。私がその火の上にかざした竹ひごはあっという間に焼け尽きてしまった。

しかしこんなアクシデントがあることは、これまで模型飛行機作りに何度も失敗してきた私には想定内のこと。次善の策がある。私は模型飛行機を買った文房具屋(当時、おもちゃと言えば文具屋で買うもので、玩具店に行くことは余程のものを買ってもらうときだった)で、工作用のバルサ材を幾ばくか仕入れていたのだ。さっそく、カッターナイフを取り出し、3人でグライダー作りを始めた。

作っているうちに日は暮れ、夕飯の時が来た。この夕飯がまた・・・祖母には申し訳なかったが、少々苦痛でもあった。ただそれは祖母の料理の腕の問題ではない。明治生まれの祖母には昭和30年代生まれ(生まれたときにはすでに高度成長期)の小学生が嗜好するものは理解しうるものではなかったからだ。思い返してみれば、そのときの祖母の料理は今ならば体になじむようなそれであったのかも知れないが、ただでさえ好き嫌いの多かった私はその夕食に閉口した。しかし明治生まれの祖母はあらゆるものを粗末にはしないというかつての日本人の美徳を依然として保持していた。出されたものを残すことは許されない・・・

翌日、快晴。早速できあがったバルサ材製のグライダーの飛行実験。出来は完璧であった。

しかしその出来の良さが、この山間の湯治宿の前の猫の額ほどの広場では仇になった。私の手を離れ、きれいな直線を描いて飛行していたグライダーはおりからの風に乗り、いつまでも下降の直線を描かない。それどころか次第にその高度を増し・・・宿の川向かいの山の斜面に生えた高枝に・・・

いくら石を投げつけて落とそうとしてもかすりもしない。

こうして私達の遊びの選択肢は将棋か、トランプかの限られてしまった。将棋は3人のうち1人は嗜まなかったので、いきおい私と二つ年下の従兄弟との対局のみとなった。二つ下とはいえ、その従兄弟の父は何度もアマチュアの将棋大会に出ては優勝していた達人。そんな父親に仕込まれた従兄弟に私の歯が立つわけはない。おもしろくないから将棋もしなくなった。トランプも・・・一日中やれば飽きてしまう。持ち込んだ漫画も読み尽くした。テレビも正月番組ばかりでつまらない。

退屈との戦いが始まったのだ・・・

けれども・・・本当の意味での退屈との戦いはその数日後に始まった。1月7日。明日から学校が始まるというその日のことだ。私の治療にお付き合いを願った友人2人が帰ってしまう日が来たのだ。学校を休んでもらってまで私の退屈しのぎに付き合っていただく訳にはいかない。その昼、迎えに来た叔父とともに2人はいなくなった。

私の治療はそれから1週間は続いた。その日々の退屈は、もう私の筆では書き表すことは出来ない。ひたすら家に帰る日・・・その日を待ちながら私は砂をかむような毎日を風呂の中で過ごした。

ところで、せっかく温泉場にて数日を過ごしたわけだから、その湯についても少しく書き記しておこう。

湯治に出かけたとはいえ、温泉治療についての知識が祖母にあったわけではない。当然のことながら小学生であった私達にもそんなものが存在しようもない。ただ風呂に入ればいいと思っていた。追分温泉に着いたその日こそ模型飛行機作りに忙しく、2度ほどしか湯には入らなかったが翌日からは退屈に任せ、1日に何度風呂に入れるか、友人たちとともに試してみようと思った。3日目、最高記録が出た。11回。

ここまで書けば、私達の体にどのような異変が起こったかみなさんにもお分かりであろう。この3人のうち、もっとも体力に恵まれていなかった二つ下の従兄弟からその異変は始まった・・・何のことはない。湯あたりだ。湯治にはその入り方、回数に作法があること良識のある皆様ならばご存じであろう。それを・・・私達は一切無視し、いきなり2日に11回も入浴したのだから湯あたりしないはずがない。従兄弟は夜中に突然気分が悪くなり、トイレに走り込んで嘔吐を繰り返した。次の日はもう1人。そして最期に私。

さて、その湯治治療の効果は・・・

ここまで体力の限界に挑戦し、退屈と戦った日々を2週間近く過ごしたのだから、その効能が現れないわけはない。私のブツブツ、あるいはざらざらの肌はまるで別人のそれのように滑らかなものとなった。

けれども・・・その効果も長続きはしなかった。春が来て桜の咲く季節が来ると・・・また私の肌にはブツブツと湿疹が表れ始めた。それまでもかなり精力的に湿疹の治療に励んできた私と私の両親であったがついにあきらめた。命に差し障りのあるような病でもない。

後は・・・なりゆきに任せよう・・・

それから1、2年たって

・・・成長した私の肌には時折肘や膝の内側に湿疹のようなものが現れるに過ぎないようになっていた。

退屈で仕方のなかったあの宿、今ネットで見ると幾分かの改築もなされ、あの頃よりはかなり過ごしやすくなったようだ。おまけに・・・まことに安価で豪華な三陸の海に幸を食することができると聞く。50を過ぎた私には・・・ちょいとそそられるそんな宿に変わっているようだ。