大和逍遥   

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山辺の道・・・崇神天皇陵

景行天皇陵の巨大な後方部を東端をかすめるように北上をほんの数分続けると道は西に向かって下りはじめる。右手に見えるのは深々と水をたたえた周壕に護られた・・・これもまた巨大な前方後円墳である。

行燈山古墳宮内庁によって崇神天皇陵(山邊道勾岡上陵)に指定された、4世紀半ばの築造の全長240mほどに及ぶ、これもまた威風堂々たる御陵である。その全長こそ310mの全長を持つ景行天皇陵には及ばないが周囲を取り巻く周壕の規模(江戸時代に潅漑のため若干後人の手が入っている)、前方部の拝所の左右に二つの陪塚を従えた様は、これまた4世紀前半、この地に君臨した王者の権威の程を今の時代に示す。

もともとこの古墳景行天皇陵と考えられていて、崇神天皇の陵墓は前述の景行天皇陵(渋谷向山古墳)であるとされていたが、明治に入ってからの宮内庁の指定により、その陵墓の主は入れ替わってしまった。

崇神天皇古事記日本書記によれば第10代天皇。和風諡号は御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)。また、御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称されている。都は磯城瑞籬宮(シキノミズカキノミヤ 現在の奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。

その存在が疑わしいそれまでの9代の天皇に対し、その実在がかなりの確実で見込まれている最初の天皇である(もっともこの頃、天皇なる呼称は存在しない.。)。「ハツクニシラス」とは「初めてこの国を統治なさった」という意味で、この国の最初の大王であろうと推定されるこの墓の主の名にはふさわしいものといえる。

崇神天皇は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が趨勢で、古事記がこの天皇の没年を干支により戊寅年と記載していることから、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も見られる。258年没説を採った場合、3世紀末に築造されたとの推定もある箸墓古墳がこの天皇の陵墓ではないかとの説も全くのいわれ無いことではなくなってくる。仮にこの考えが正しいとすれば、その没年は239年に魏に使いしたという邪馬台国卑弥呼とその生存時代が重複することになる。

さて、この大王がそれまでの9代と違ってその実在が疑われていないのは古事記日本書記に記されたその治世中の業績が著しく具体的なことによる。参考までに以下に列挙してみよう。

その他、依網(ヨサミ)池や軽の酒折(サカヲリ)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったという。

祭祀、軍事、税制、治水と古代の治世者が行うべきすべてがこの大王の記録には残っており、いずれもその実在の可能性を高める記述と受け取れる。山辺の道は大和盆地東端の山沿いの標高の高い部分を行く道で、盆地全体を見下ろす場所にある。そんな道上にひときわ高く聳え立つこの人工の丘陵は、その祀られている主の権力の強さを人々に知らしめていたであろう。

さて先ほどから歩み続けている崇神天皇陵の周濠の南の縁を西に進む道をそのまま行くと国道165号線に突き当たる。ここは周濠の西の果てに北に向いて走る周壕の土手沿いの小径を行く事にしよう。ほんのわずかでこの古墳の拝所に行き当たる。

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近づいてみよう。

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古代の英雄に暫し思いを馳せた後、周囲を巡る濠の水面に目をやる。

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ゆったりと水鳥がたわむれている。写真が遠くはっきりとは分からないが、カイツブリ・鴨などが羽を休めているらしい。

ここでちょいと振り返る。

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両端の緑地は上に述べた二つの陪塚である。曇り空の下、やや見晴らしは悪いが、気の澄んだ日には大和盆地がきれいに見渡せる。

今から1600年以上前、この地を統治した大王は今もなお大和を睥睨している・・・・