大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

えんずのわり

もうじきあの日から1年が経とうとしている。以前にも紹介したように私が生まれ育った町は今人影一つない・・・ 東松島市復興計画案によれば、私の家のあった「新町」地区は集団移転の対象地区になり、これから先その場所はその跡地を利用するべきか検討の対象地区になるという。人の住まない地域になるということだ。

自分が生まれ、育ち、様々な思い出の詰まるその場所が、未来永劫にわたって人の住まない場所になってしまうことには、一抹の寂しさを感じないでもない。けれども・・・このようなことがあったからには納得せざるを得ない・・・ましてや、今は遠く大和の地に住む自分には、その計画の是非についてあれこれ述べる資格はない。願うことならば、今、仮設住宅やあちらこちらのアパートに暮らしながらいつかかつての場所に戻ろうと日々を送っている人々の感情に即したものになってほしいと思うだけである。

そんな思いを抱きながら地元関係の情報をネット上で眺めていた時、ふと懐かしい言葉が目に入った。

「えんずのわり」

その言葉は懐かしい郷里の訛りとともに、ある記憶をよみがえらせてくれた。

私がこの言葉に初めて触れたのは中学校に入ってからのことであった。私が在籍していた鳴瀬第二中学校は、その中学校のある野蒜地区の野蒜小学校と、一本の橋によってその野蒜地区と地続きになっている宮戸島にあった宮戸小学校から登校してくる子供たちのものであった。

私は野蒜小学校の出身であったが、中学校に入って程なく宮戸小学校からやってきた子ども達とも親しくなっていった。そんな中学校1年生の時の正月明けのことである。私は野球部に所属していたのだが、その宮戸島から通ってくる先輩・友人の中に数名がこれから一週間ほど「えんずのわり」があるから練習には行けないというのだ。

はじめてこのことを聞いた私はそれは大切な練習を休むほどの大事なものなのか・・・

と思い、同じ宮戸島からやってくる先輩に聞いてみた。先輩は言う・・・月浜の男の子はなにがあっても、「えんずのわり」には参加しなくてはならないのだ・・・と。

宮戸島は大きく4つの集落からなっていた。里浜・室浜・大浜・そして月浜。彼はそのうちの月浜の出身であった。宮戸島の他の浜(集落)のからやってきていたその先輩はは言う・・・「えんずのわり」だけは仕方ないんだ・・・と。

ならばその「えんずのわり」とはいかなる行事なのか。


「えんずのわり」とは・・・ 宮城県東松島市宮戸の月浜地区に伝承される小正月の鳥追いの行事。7歳から15歳の子どもたちが岩屋で数日間のお籠もり(精進潔斎を伴う)をしてから、集団で家々を回り、害鳥を追い払う唱え言をいって、一年の豊作や無病息災を祈願する。その唱えごとにいう。

えーい、えーい、えー。えんずのわり鳥追わば、頭(カズラ)割って塩つけで、たーどー紙さ畳み入れで、えんずの島さ流さんし

意地の悪い鳥を捕まえて遠い島へ流す・・・という内容だ。1月11日からの数日間、精進潔斎の集団生活を送る子供たちは1月14日、月浜集落の一軒一軒を回り、太く長い棒を地面につき立てながら、この唱え言を3回繰り返す。そして、その家の家族構成や職業などに応じて、年寄りの長寿や子どもの無事成長、家業の繁栄などの祝いの言葉を述べた上、最後に

陸は万作、海は大漁、銭金孕め

と締めくくる。

行事の準備や執行は、月浜子どもたちを中心に行う。最上学年で最も早く生まれた男子が一番大将と呼ばれ、以下、年齢順に二番大将、三番大将となり、その年初めて参加する一番下の男子がスッケン大将と呼ばれて雑事を担当する。一番大将が行事の責任者であり、岩屋でのお籠もりをはじめとする行事全体の指揮をとる。

毎年、1月11日になると、月浜の子どもたちは寝泊まりに必要な炊事道具や米、野菜、味噌などの食事の材料を持って、氏神である五十鈴神社の参道脇に造られた岩屋に集まる。岩屋は、大岩を刳り抜いて軒や雨戸、縁を取り付けたもので、内部は10畳ほどの広さをもち、神棚、竈、囲炉裏が設けられている。子どもたちは16日までの6日間、この岩屋にお籠もりをして寝食を共にし、学校へもここから通う。

食事は精進中ということもあり厚揚げや人参、牛蒡などを入れた汁とご飯だけで、肉や魚はいっさい食しない。食事の支度は子供たち全員が協力して行うが、味付けは一番大将の役目であり、また、よく働いた者には一番大将の指示で、料理に豆腐が付いたり、逆に怠けていた者の汁の中には生の野菜が入れられたりする。そんな大人の手を借りない子供だけの共同生活は16日まで続く。先に述べた家々への巡行はこのような潔斎の上行われる神聖な儀式なのだ。


長くなってしまったが、以上が行事のあらましである。立派な国指定の無形重要文化財である。そして、2012年1月。宮城県東松島市宮戸月浜地区に長年伝わってきたこの行事が途絶えようとしていた・・・言うまでもない・・・あの日があったからである。宮戸島の各集落では、千数百人がそれぞれの集落の名を持つ浜に面した、ほんのわずかにある平地に密集し人々が暮らしていた。そんなこの島にもあの暗い冷たい波濤は押し寄せた

・・・・けれども、奇跡的にもこの島からは一人の犠牲者も出なかったと聞いている。漁業を生業とする人々が多い地域だけに、漁業無線によっていち早く津波の情報を手に入れられていたとも聞くし、地形的にも非難するにふさわしい高台がそれぞれの集落に身近にあったからだとも聞く。

けれども、それぞれの村が安泰だったかどうかは別の話である。

集落は完全に破壊しつくされた。

・・・集落の再生さえおぼつかない、そんな状況下、「えんずのわり」が続けられるのか・・・大人たちは、日々の生活、そして生業の再生に追われている・・・

・・・そして立ち上がったのが数名の子ども達であった。子供たちが・・・大人を動かし、遠く離れて避難しているかつてのこの集落の子供をも呼び寄せ立派に「えんずのわり」を成し遂げた。

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20120115_09.htm

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