大和逍遥   

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大仏様に会う・・・3

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大仏殿に一歩足を踏み入れた私たちを、御仏・・・毘盧遮那(ビルシャナ)仏は優しく迎え入れてくださる。

3mの程の高さの台座の上にお座りになられたその身の丈はおよそ15m。しめて18mの巨大な金銅製の像が充分な重量感をもって私たちの前にその存在を示しているが、決して威圧的な印象はない。大仏様のその目の高さを考えれば私たち人間は10数m程見下ろされていることになるが、微塵もそのような感覚はない。

大仏殿内の広々とした空間のせいなのか、それとも大仏様の御功徳のおかげなのか・・・この堂宇の中に足を一歩踏み入れると、なにか自分を優しく包み込むような偉大なるものの存在を感じ取ることができる。先ほど南大門で厳めしいお顔の金剛力士に睨みつけられ縮み上がってしまった衆生の心は、毘盧遮那仏の穏やかな視線の中で、わずかな屈託も残さずに広がってゆく。そして、すべてを御仏の掌上に委ねてみたい・・・そんな思いに駆られてしまうのだ。

東大寺の大仏様は、聖武天皇の勅願によって、752年に開眼供養会を迎えた。

724年、24歳の若さで聖武天皇は即位する。以降、社会的な不安が打ち続いた。地震・日食が続き、728年の皇太子の死、729年の長屋王の変・皇太子の死、737年には天然痘大流行、とどめを刺したのは740年の藤原広嗣の乱。

聖武天皇は、仏教の力によりこれらの不安を解消しようとする。まずは41年に国分寺国分尼寺の建立の詔。次いでそんな聖武天皇東大寺の僧、良弁(ロウベン)は諸国の国分寺の総本山の建立と大仏の造立を進言する。743年、聖武天皇はこれを受け入れ、時の都であった紫香楽(シガラキ)の地に大仏を造立しようとした。が、都が平城京に戻すに従って、若草山の西麓の金鐘寺に新たに東大寺が建立され、その本尊としての大仏が作られることとなった。

既述のごとく、奈良の大仏様の正式な名称は毘盧遮那仏サンスクリット語のvairocana(バイローチャナ・)を音訳した語で、「あまねく光り照らす(光明遍照)」の意で智慧と慈悲とを無辺に照射する如来であり、真理を擬人化した如来でもある。また宇宙の真理そのものを顕しており、悠久の過去から未来まで仏の王者であるという・・・・

かくも巨大な仏を造るという一大事業は、当時の国家の力をはるかに越えていた。ために聖武天皇は「草一束、土の一くれでも有難い」と広く国民に寄進を乞うた。 使われた資材は銅は490t、金メッキのための金は430kg、その鍍金に使われた水銀は2.4t(この大量の水銀使用が環境の悪化をもたらし、桓武天皇の平安遷都をもたらしたとの学説もある)に及ぶ。

大仏様の建造にかかわった人員はのべ260万人以上で、当時の日本の人口が500万人から600万人であったと考えられるから、実に国民の2人に1人がこの巨大公共事業にかかわったことになる。モノの本によればこの事業に用いられた予算は当時の国家予算の3倍に当たるともいうから、当時の庶民の苦しみのほどが窺われよう。国家の安穏、そして人々の幸福を願い始められた事業が結果としてはかえってその生活を逼迫させてしまった事実は決して否定しえない現実ではあった。

けれども・・・人々の怨嗟はこの御仏にはおそらく向かわなかった。

それはこの御仏が数度にわたる危機を乗り越え現在もなおその御姿を1200年以上後の21世紀の世に生きる我々にその姿を見せてくれていることが物語っている。

周知のとおり大仏様は平成の御代に開眼なされた時のお姿で今我々の前にいらっしゃるわけではない。損壊しては作り直され、また損壊しては作り直される・・・ということを何度も繰り返し、今、我々の前にいらっしゃるのだ。

786年・・・・尻の部分が破損 855年・・・・地震のため頭部が落下 1180年・・・平重衡の兵火で頭部や手が損傷 1567年・・・松永久秀の兵火で大仏殿が焼失,大きな損傷

以上が東大寺毘盧遮那仏の損壊の歴史だ。特に1567年松永久秀による焼き討ちの炎は大仏様の御姿を、その原型をとどめないほどに溶解せしめたという。が、早くもその翌年の1568年には、山田道安(山辺郡山田城城主)が中心となり、大仏および大仏殿の修理が試みられている。織田信長や、徳川家康なども勧進許可を出し、大仏様補修の仮工事は行われた。けれども「仮」は「仮」である。本格的な補修が行われた1684年までは木造銅版張りの仮の頭部を乗せた状態で、雨ざらしのままだったといわれている。

本格的な補修が行われたのが1684年。東大寺の僧、公慶が大仏の修理のために勧進を始めたことが、その嚆矢となる。公慶はその資金集めのために江戸や上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行う「出開帳」を行った。これは現世利益・霊験を願う人々の心をつかみ、多額の喜捨を集めることに成功した。計画が具体化するに従って、奈良の町には大仏講が組織され、勧進帳が作成される。1686年には大仏の補修が始まり、そのわずか5年後には大仏の修理は完了し、その翌年には大仏開眼供養が盛大に営まれた。

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さらには大仏様の再建よりも多くの費用が見込まれる大仏殿の建造も、それまでの再建への公慶らの営みが、そして人々の篤い信仰心が徳川幕府が動かす。一人の僧の大仏再建への情熱が多くの人々を動かし、更には幕府をも動かし、大仏再建の営みは国家的大事業となっていく。そして1708年、 公慶が世を去った3年後に大仏殿の再建は完了する。公慶が復興を志してから約70年後のことであった。

仮にこの巨大な御仏が怨嗟の対象としてのみ人々の目に映っていたとするならば・・・けっして大仏様はこの21世紀に生きる我々の前にそのお姿をとどめえてはいないであろう。

1200数年前、平城の地に姿を現した空前の規模の毘盧遮那仏は、その長い歳月の間、身分を問わず人々の悩み・苦しみを受け止め続けてきた。その切なる願いを引き受け人々の心を癒し続けてきた。

だからこそ・・・今も・・・大仏様はこうやって多くの人々の心をあつめ続けている・・・

大仏様は、その巨大さと由緒の古さのみで尊いのではない。1200年以上もの年月、数知れぬ人々の願いを引き受け、その悩み・苦しみを癒し続けてきた・・・翻っていえば、この長い歳月に大仏様に寄せられた祈りの総体の膨大さゆえに尊いのだ。

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さて、これで今回の東大寺についてのレポートは終わる。「大仏様に会う」と銘打ったこともあって、その内容は東大寺全体に及ぶことはなかった。けれども知っての通り、南大門と大仏様のみが東大寺ではない。大仏殿を中心とした伽藍から東に少し行けば手向山神社・二月堂・三月堂。北には正倉院・講堂跡・戒壇院。更には大仏殿の内部にも他に数体の尊い御仏が我々を迎えてくれている。

ただそれらの全てをここに紹介するのはもはや私の筆力を越えている。あとは・・・下記を覗いていただければ幸いである。

http://www.todaiji.or.jp/virtual/3dpvr/todaiji.html

左上の「MAP」とクリックしていただけば、広大な東大寺のどこへでも行ける・・・