大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

あの日(3.11)・・・その日の私1

・・・そろそろ語り始めなければならない・・・

http://soramitu.net/zakki/?p=1334

・・・と、先日述べたようにあの日から1年たった今、あの日・・・3月11日・・・について自分なりに整理をつけて行こうと思う。そうなると、まず手始めに自分自身のことから語り始めるのがすじの様に思う。あの日、あの時自分が何をしていたのか、そしてあの日の悲惨を耳にし、そして目にして何を感じ、何を思ったのか。できる限り詳しく思い出してみたいと思う。

その日の午後2時46分・・・金曜日であったのだから当然のごとく私は職場にいた。週明けの月曜日に、我が職場で催される予定であったイベントの準備がその日の午後は行われた。2時過ぎにはあらかたの準備も済み、私は数名の同僚と会場の最終点検に建物内を見回っていた。途中、誰かが「今、揺れたんじゃないか?」といったが、私を含め他の者は誰もその揺れを感じてはおらず「気のせい気のせい・・・」と誰かがそれに応えて、その場は流れて行った。

見回りが終わって、オフィスに戻ったのが3時少し前だった。オフィスにひかえていた者たちはみんな揺れを感じていて、口々に「長いこと揺れたなあ」などと言葉を交わしていた。数人の者がインターネットで情報を得たのか、「宮城で震度7だって」という声が聞こえてきた。職場の多くが私の出身を知っていた。入れ替わりに私のそばに来ては「お実家は大丈夫?」と聞く。

心配がなかったといえば不正確になってしまうが・・・この段階では、私の心配の度合いはそれほどのものではなかった。

確かに震度7というのは確かに強烈な揺れだ。

しかしながら、この地は2000年代に入ってからだけでも、2003年の三陸地震震度6弱)・宮城県北部地震震度6強)、2008年の岩手宮城内陸地震震度6強)をたて続けに経験している。1978年の宮城県沖地震以来、急速に高まった我が郷土の地震に対しての防災意識の成果か、特に2003年の二つの地震においては一人の死者すら出てはいない。建築物にかなりの損傷は出ようが、今回もきっと・・・

たかをくくっていた・・・

続けて大津波警報が出ているとの情報が入る。東北は太平洋側に暮らしていると、津波注意報津波警報という言葉はしばしば耳に入ってくる。けれども、その注意や警報が現実になったことを私はこの人生において知らない。けれども、大津波・・・というはそうしばしば聞く言葉ではない。先ほどまで、高を括っていた思いに少し影がさした。

ただそれでも私はまだたかをくくっていた

私が生まれた年、三陸の地は地球の反対側のチリを襲った大地震によって発生した津波に襲われている。甚大なる被害があった。けれども、身勝手すぎる考えではあるが、私が生まれ育った鳴瀬町(現東松島市)野蒜の地においては、海岸線の、あるいは太平洋に流れ込む鳴瀬川の堤防がかろうじての所で踏み堪えてくれたらしく、一部に浸水した場所(もともと塩田があったような低い場所だったらしい)があっただけで、ほとんど被害はなかった。(今回の津波で跡形もなくなってしまった、野蒜白髭神社のホームページにはその時の映像が示されているのでここにその住所を記しておく)

http://www.michihiraki.org/shirahige/index.htm

そんな記憶が心にあったので、私はまだ安心していた。

次に目に入ってきたのは・・・確か釜石のそれであっただろうか・・・三陸のとある港町が昏く冷たい波濤に飲み込まれている映像であった。夏の高校野球の時以外にスイッチを入れる人もなく、それ以外の時にはその存在さえ忘れられている我がオフィスのテレビジョンが、意味もなく不安をあおるようなアナウンスとともに、これまで目にしたこともないような悲惨を映し出していた。