大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

あの日(3.11)・・・その日の私2

私にはどうにも物事を楽観的に考えすぎる傾向がある。というよりも、おのれに突きつけられた現実をそのまま受け止めるだけの強さがないだけで、ようは現実をそのまま受け止めるという行為に付帯する様々な困難から違うところに身を置いていたいという怠惰な精神があるといった方が正確かも知れない。

その日、もう午後4時をまわったころであろうか・・・テレビジョンの画面を通じて私の目に入ってきた東北のとある港町の悲惨(確か釜石のそれであったと思う)を見たときも、私の町、宮城県桃生郡鳴瀬町(現東松島市)野蒜はまさかこんなふうにはなっていないだろう(この思い自体が、自分にかかわる人々のみが無事であればいいというような極めて身勝手な思いなのであるが)と思っていた。

北緯38度6分12秒東経142度51分36秒を中心とする震源地から押し寄せた冷たい波は、釜石湾の入り口に設けられた世界最大級の防波堤を乗り越え、町にあった自動車(おそらくその中には避難中の人が乗っていたものも含まれるだろう)を木の葉のように弄び、人々が長年にわたって築き上げてきたその町をことごとく押し流していた。そんな映像を目の当たりのしながらも私はまだ心のどこかで自分の生まれ育った町の無事を信じていたのだ。

とはいえ、郷里に暮らす父や兄、そして叔父や叔母たちの安否には無関心ではいられない。私はすぐさま連絡を取ろうとした。けれども私の発信に誰も応えてはくれなかった。やがて勤務時間が終わり家に帰った私は、惨状を伝えるテレビジョンをつけっぱなしにしたまま、何度も何度も空しい発信を続けていた。

テレビジョン、ネット・・・あらゆるメディアを通じて私は自分の生まれ育った町の情報を手に入れようとした。仙台の海岸沿いの町の悲惨、炎に包まれる気仙沼の市街、そして石巻、女川・・・・馴染みのある地名が耳に入ってくるが、我が町の名が聞こえてこない。ここでも私は非常に身勝手な淡い期待を抱いてしまっていた。

被害が無いからこそ、あるいは軽微だからこそ、その情報が入ってこないのではないかと・・・

けれども、そんな私の淡い、かつ身勝手な期待を打ち砕くような情報がぽつりぽつりと入り始める。

私が6年間を過ごした野蒜小学校に数百人の死体が打ち上げられた・・・津波が我が町に押し寄せたであろう時間帯にこの町を通過していたであろう列車の消息が不明である・・・とのテロップが画面に縁に表示されはじめたのである。前後してツイッター上においても、断片的な情報が入り始める。絶望的な情報ばかりであった。

・・・野蒜全滅・・・

そんな文字も見えた。そこまで過激ではなくともニュアンスとしてはほぼ同様の情報ばかりであった。

そんなおり、同じ奈良県内に住む叔母の元から、静岡に住む私の長兄と連絡が取れたと電話があった。長兄の話によれば、地震直後には現地との連絡も取れ、父とともに暮らす次兄と話すことが出来たということだった。激しい揺れが宮城を襲ったその時、次兄は家から2kmほど離れた職場にいたのだが、職場より海に近い家に父がいるので避難のためにこれから家に戻るというというやりとりがあったそうだ。けれども・・・その次兄との連絡はその後不通になったらしい。私もそれまでに次兄には幾度も発信してはいたが何の反応もなかった。

ここまで話が具体的になってくると、いくら楽観的な私の精神であっても、一つの覚悟をしなければならないと思い始めた。

不安な一夜を過ごした後、早速テレビジョンに齧り付く。昏く冷たい波濤の惨たらしい爪痕をテレビジョンは映し出す。

いくら見続けても我が町の状況をメディアは伝えてくれない。石巻から来たの三陸海岸の町々や、松島湾以南の海岸線の様子は何度も何度も繰り返し映し出されていたのだが、なぜか我が町の上空をヘリコプターは飛んではくれない。川を隔てた場所に自衛隊の松島航空基地がある故、機密保持のために映せないのか・・・そんなふうに勘繰ぐったほど我が町の状況は映像として入ってこない。

それがため、私の楽観主義は再び頭をもたげはじめたほどだった。

しかしながら、その日の夕方であったであろうか。私が暮らし育った家並みが降りしきる春の雪の中、無残にも消え去って行く姿が・・・ついに映し出された。

   http://www.youtube.com/watch?v=Rd4UKURcW90&feature=player_embedded

※この頃から次第に郷里の人々の安否の情報が入り始める。私の携帯電話は依然としてその機能を発揮することはなかったが、上述の叔母のそれは途切れ途切れではあってもその機能を発揮していたようだ。

上にあった野蒜小学校の校門前に居を構えていた叔母は息子とともに無事。行方不明になっていた列車が、くの字になって発見された場所の近くに居を構えていた叔父の家族も無事。海辺近くにあった私が卒業した鳴瀬第2中学校のの校門近くに暮らしていたおじおばは、そしてもう一人の叔父が・・・海に帰ってしまったと・・・・

そして、13日になって父と次兄の無地が確認された。