大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

壬申の乱・・・僻読

天智天皇の10年(671)9月、天智天皇は病に倒れた。10月、いよいよ病篤く、再起の望みの絶たれた天皇は、その革新事業を共に歩んだ弟大海人皇子を枕元に呼び、後事を託した。しかし、大海人は丁重にそれを辞し、皇后倭姫を天皇の位につけ、天智の皇子、大友に政治をゆだねるように進言した。そして自らは髪を剃り、僧門に入った。それから間もなく、吉野に隠ることになる。

しかし、これには裏があった。皇位の継承問題である。大化の改新を推進する天智(中大兄)を弟大海人は適切に補佐し続けた。その功績を認めた天智は次期の天皇を大海人に定め、皇太弟とする。けれども、皇子大友が成長し、その有能さを示すに連れて、天智はかつての弟との約束を後悔することになる。その約束さえなければ、すんなりと我が子を天皇に出来たのである。親の心情としてやむを得ないことだろう。もし自分が死んだならば、我が子、大友は・・・・ なまじ有能なため大友皇子は大海人にとってじゃまな存在になるであろう。そうなったとき、天皇たる我が弟のとる行動は・・・天智は身震いがした。なんとしてもその芽を摘んでおかなければならない。

こうなると、改新の英君も一人の父親となる。ある覚悟を持ち、天智は我が弟を枕元に呼んだ。その返事によっては、弟を亡き者に・・・しかし、その思いを大海人は見透かしていた。枕元への案内を努めた蘇我臣安麻呂が短く「(天智の言葉には)心してお答えなされい」と忠告をしたのだ。うかつに自分が天皇になる前提で動けば命が危ない。そう悟った大海人は自らは僧になり、天皇への野心は無いことを兄に示した。

こうして難を切り抜けた大海人は言葉通り髪を下ろし、吉野に隠った。表向きは僧として兄天智の快復を願うためである。人々は吉野に向かう大海人の後ろ姿を見ながら「虎に翼をつけて放したようなもの」とうわさをしたという。

吉野に着くと大海人は付き従った従者に告げた。「これから私は仏道に入る。このまま私に従っていても諸君の将来のためにはならない。すみやかに都に戻り官職に就くように。」と。誰もそこから離れるものはなかった。再度、大海人は説得を試みる。半数が都へと戻ったが、半数は大海人のもとに残った。

12月、天智は崩御する。大友を頭に頂く近江政権は吉野の大海人に対しての警戒を怠らなかった。徐々に大海人を締め付けて行く。翌年(672)6月、ついに大海女は決起を決意し、吉野から東へと向かう。この時、大海女に付き従っていたのは、妻鵜野皇女(後の持統天皇)と二人の皇子、そして従者20数人のみであった。

・・・・すでにおわかりの方は多いと思う。壬申の乱である。創作めいた文章になっているが、おおむね史実通り(日本書紀の記述通り)に書いているつもりである。もし間違いに気づかれたならばお教え頂きたい。以下、日本書記の示すごとく、日を追ってことの成り行きを見て行きたいと思う。

671年12月

天智天皇は世を去った。大友皇子を中心とした近江朝廷の圧力は次第に大海人にのしかかっていった。食糧の補給もままならない。また、天智天皇の御陵を作るためにと多くの人を集めている。しかし御陵が出来た後も人を帰す気配はない。兵を集めているとも受け取れる。

672年5月

大海人は「何んぞ黙して身を亡ぼさんや」と吐き捨て、決起を決意した。

6月22日

腹心の部下に、美濃に向かい味方につくように工作せよと命令。彼等は速やかに美濃に向かう。

6月24日

東へと向かう。この時彼に付き従うものは妻鵜野皇女(後の持統天皇)二人の皇子、従者20数名、女官10数名のみ。吉野から一山越え、宇陀に入ったとき、吉野からあとを追ってきた大伴馬来田(マグタ)が、大海人につく意志を表明。古来より武門の誉れ高い大伴氏の加勢は大海人皇子にとってさぞかし心強いものであったと思われる。一行はそのまま名張に向かい、名張で兵を募るが応じるもの無し。さらに夜を徹して伊賀へと向かう。

6月25日

伊賀の国柘植(ツゲ)にさしかかったとき、近江の都の残していた皇子高市が合流。近江朝廷の動きを聞く。一行はさらに進み、伊賀、伊勢の国境、鈴鹿に着く。伊勢の国守一行が大海人を迎えるべく参集していた。伊勢一国は真っ先に大海人に帰属した。500の兵をして来た道を閉鎖した。

6月26日

近江より大海人の皇子、大津が到着。幾人かの実力者がこれに従ってやってくるとの連絡が入る。これに先立ち、大海人は伊勢神宮にいます天照大神を遙拝する。そこへ先に美濃に遣わしていた使いが早馬でやってくる。「美濃は既に我が手の内にあり。3000の兵が不破の関ををおさえたり。」と告げる。不破の関とは関ヶ原のこと。大海女派は近江方の東国との連携を封じ込めることに成功した。大海人は皇子高市を不破の関に派遣しその軍を統括させる。自らは桑名にとどまりさらに東国の軍を集める。 これら一連の動きは不完全ながら近江方にも伝わり、おおいにその動揺をもたらした。西国に挙兵を促すが兵は思うようには集まらなかった。軌を一にして先に大海人に帰順の意を示していた大伴馬来田は弟吹負(フケヒ)と共に病と称して近江を辞し明日香古京にもどる。

6月27日

不破の関にある高市皇子から、戦いの場に大海人がいなければ兵の士気も上がらぬとの訴えがあり即日、不破に向かう。これまでの伊勢、伊賀、美濃に続いてさらに尾張が名をあげる。軍勢は数万に膨れあがり、近江方と充分に戦える体制が整う。ほんの数十名のものと共に吉野を抜け出し、たった3日後のことである。後に万葉集では「大王は神にしませば」と歌われることが多くなったが、このときの大海人の残像であろうと言われている。まさに神業だった。

かくして、開戦前夜と相成った・・・・

戦いに火の手はまず明日香から上がった。大伴馬来田・吹負の兄弟が明日香の古京を占拠した。数はそう多くはない。数十名と記録にはある。けれども、古来武門の誉れ高い大伴が動いたと言うことは多くのものに影響を及ぼした。この蜂起は不破の大海女にも伝わり、喜んだ大海人は吹負を将軍に任ずる。 古豪大伴のこうした動きに、大化の改新以降の動きの反感を抱き、大和に在った豪族達がこの動きに呼応する。

7月1日

大伴軍、平城(ナラ)山へと向かう。

7月2日

不破の大海人軍本隊において総攻撃の号令が下り、近江攻めが始まる。大海人は、軍勢を二手に分けた。一方は、大和へ。そして、もう一方は直接不破の関を抜け近江に向かわせた。いずれも数万の大群である。

一方、近江方は明日香での大伴の蜂起を知り、これを押さえにかかる。明日香より近江に向かった大伴兄弟は大和と山城の国境、平城山(ナラヤマ)で、近江の武将大野果安(ハタヤス)と激突。敗走をする。7月4日のことであった。このとき、近江方大野果安は大伴軍を追走をせず、この後この戦いから姿を消す。壬申の乱においての一つの謎である。

不破の関から近江になだれ入った軍勢の戦いの様子は柿本人麻呂高市皇子への挽歌に詳しい。人麻呂は高市亡き後その死を惜しむ歌の中で、高市の功績としてこの壬申の乱の戦いの様子を詳細に叙述している。私に人麻呂を超える筆はない。是非とも万葉集巻二・199~201を参考にして欲しい。万葉集中最大の作品である。その叙述のあまりのリアルさから、人麻呂はこの戦いに参加していたのではないかと推測する学者もいる。

7月20日

大和における戦いは最終的な局面を迎える。吹負は平城山での敗戦の後、援軍を求め伊賀を越え大海人の本営を目指していたが、途中不破より大和に向かった一軍にあう。ここで二者は合流し、再び大和平野へと向かう。不破より多くの援軍を得た大伴の兄弟は三輪山の麓、箸墓で近江軍と激突する。この戦いには「甲斐の勇者」も参加し活躍したとの記述もあるところから、大海女の勢力は関東にまで及んでいたと見られる。戦いは大伴軍の圧勝。

その後吹負は軍を分け、その一方を引き連れて難波に向かう。西に対してのにらみをきかせるのと、近江方が淀川沿いに逃げ延びてくることに備えてであろう。 なお、この大伴軍の残りの軍勢は山城まで達する。

これで、近江方の敗路はたたれた。

7月22日

不破より攻め込んだ大海人軍本隊と近江軍は瀬田川において激突することになる。戦いは、大海女軍の圧勝。近江京は陥落し、大友皇子は敗走。翌23日、大友皇子は山崎にて自害する。

この翌年、大海人皇子は明日香浄御原(キヨミガハラ)宮において即位。天武天皇の誕生である。


長々とした文章に御付き合いくださりまことに幸いである。

以前から拙ブログにおいで頂いている皆様ならどこかで一度・・・?、とお思いであろう。実はこの文章はこのブログが「北窓三友」と称していた頃、数度にわたってお読みいただいた記事を一つにまとめたものである。幾度か引っ越しを繰り返す中、不備な部分はままあれどどうにも捨てきれず寝かしておいた一文で、この度、気になる部分は手を入れて一つにまとめ上げてみた。

今回こうやってここにアップしたほか、もう一か所、以下の場所にもアップしておくつもりである。

http://soramitu.net/yamato/?page_id=2113

他にもいくつか捨てきれずに残してある文章がいくつかある。今後折に触れては・・・こうやって古い引出しを穿ってみたいと思う。よろしければお付き合い願いたい。