大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大極殿を見る

眼前に大極殿が迫ってきた。正面幅44m、奥行き27mのこの巨大な建造物の高さは、基壇(高さ3,5m)を含めると27mに及ぶ。東大寺大仏殿の(正面幅57m、奥行き約50m、高さ約27m)と較べれば小ぶりともいえるが、こうやって近づいてみると、その威厳は我々を圧倒するものがある。かつて天皇即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式がこの場所において行われていた。

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実は平城の御代においては大極殿は二つ存在している。一つは、この度復元された第1次大極殿。上の写真がそうである。もう一つはこれよりやや東に位置する第2次大極殿である。

第1次大極殿は、平城遷都にやや遅れて、715年頃に完成したものと見られている。この後、740年に始まる聖武天皇の5年間に及ぶ彷徨により、第1次大極殿は、一時都とした恭仁(クニ)宮に移築され、後に山城国国分寺金堂として用いられることになる。

そして、聖武天皇が5年の彷徨を終え平城京に帰った745年以降に使用されたのが第2次大極殿である。第1次大極殿平城京の正門である朱雀門の南北軸上に位置していたのに対し、第2次大極殿はその軸から東にずれて建っていた。都としての構造上から考えれば大極殿は内裏の中央線上にあるべきで、その意味では第1次大極殿の跡地に再び大極殿は建てられるべきであっただろうが・・・おそらくは資金上の問題があったのだろうか、以前から饗宴等にもちいられていた施設を増改築し、再利用したものと考えられる(この辺の事情についてはちょいと自信がない)。

さてこの度の第1次大極殿の復元であるが、言うまでもなく一昨年の遷都1300年に向けての様々な催しの中核の事業として計画された。当時の設計図や参考になるような絵画などが残っていないことから、その復元作業は困難を極めた。発掘調査で判明している基壇や、恭仁宮の大極殿国分寺金堂)の跡に残る礎石の状態などから大極殿の大きさ、形を推定し、わずかに残る文献や法隆寺金堂、薬師寺東塔など、同時代の寺院建築も参考に、かつてこの場所にあったであろう威容を推定したという。

費用だってばかにならない。最終的にはその枠内に収まったと聞いているが、当初の見積もりによれば180億・・・これもまた難題の一つに違いない。

更には、その用材。この建物には44本の柱が用いられているが、そのサイズは直径70cm、どれもが樹齢250年を越えるヒノキ材が必要とされた。しかしながら、これほどのヒノキ材があちらこちらに生えているような幸福な状況では、この国はない・・・それが無理だったから、たとえば法隆寺等の寺院の修理には外国の用材が用いられた。けれども今回は・・・吉野産、熊野産のそれを主にして、琵琶湖周辺や長野県、関東からもかき集められたという。今後この国においてこのような建築が二度とできないであろう・・・との根拠はここのある。もうそれだけの木が、この国にはないのだ。

数々のハードルを越え、平城の御代の威容が2010年・・・復元された。

ところで、この平城の御代の政権の中枢についてはかつて一度レポートしたが、その時は曜日の加減で、その中に立ち入れない日であったのでその外観を伝えるのみであった。

http://soramitu.net/zakki/?p=611

今回はその内部に入ることもでき、その絢爛な構造物をつぶさに拝見することができた。中でもここでレポートするべきは、その中央に配置される高御座(タカミクラ)であろう。

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詳細については上のリンクをご参照願いたいが、大極殿において何事かの行事が行われようとする時、天皇はここにお座りになられた。そしてそこから見えたものは・・・・

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平城京の中枢、平城宮の正門、朱雀門である。往時、この間には、この国をつかさどったあらゆる官庁が立ち並んでいた。今、漠と広がる草地を見つつ、しばし空想する。在りし日のこの宮の賑わいを・・・そして・・・思う・・・

かつてこの国が、国としての形をやっと整えつつあった平城の御代から1300年。この国は今様々な困難に立ち向かわねばならない状況にある。とはいえ、現在、人々の寿命は平成の御代の人々からすれば2倍に値するまでになった。生活を取り巻く物質は比較するべくもなく豊かにはなった。

・・・が、かつてこの時代の無名の歌人

福(サキワイ)の いかなる人か 黒髪の 白くなるまで 妹(イモ)の声を聞く

万葉集巻7・1411

と詠んだ。

そう・・・1300年前も今も、何を幸福と呼ぶかはそう変わりはしない。ならば、この1300年が変えたものとは・・・

・・・ちょいと幸福論的空想にひたってみた・・・・

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