大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道1日旅行・・・3

平等寺を後にして歩く事5分、大神神社に到着。下の写真のように大神神社が見える位置で今度は別の先生から大神神社、そしてその祭神大物主大神についてレクチャーを受けた後に昼食。

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昼食は大神神社のご厚意により、当神社の施設、大礼記念館の一室を貸していただいた。そう狭くはない・・・おそらくは結婚式の披露宴などにも利用されるのであろうその一室が満杯になったのを見て、本日の参加者の多さを改めて感じた。

13時、出発だ。改めて大神神社の神庭に・・・全員そろって参拝。いつもの私のお散歩のコースなら、お社の神庭を北に抜けて狭井神社、久延彦(クエビコ)神社、そして大直禰子(オホタタネコ)社の順で歩くわけだが、今日は全くその逆に上の諸社をめぐる。いつもの散歩はそのまま帰宅するための順番だが、今日は山辺の道を先に進まなければならない。となれば、どうしても大直禰子(オホタタネコ)社、久延彦(クエビコ)神社、狭井神社と回らないわけには行かない。なぜならば、山辺の道は狭井神社から北に延びているからだ・・・・

60人近い人間がぞろぞろと参道を西に向かう。すれ違う参拝客はこれは何事かというような目でこちらを見る。深い木立におおわれた参道を抜け二ノ鳥居を出れば駐車場だ。この駐車場から北に200m程の位置に大直禰子(オホタタネコ)社はある。

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鳥居の奥にあるそのお社は、一見神の社には見えない。この構造は、どう見ても仏教寺院のそれだ。大神神社の神宮寺大御輪寺の建物を、明治の廃物客以来、神の社として転用しているのだ。なんでも昭和61年にあった解体修理の時に行われた調査によれば、創建当時の奈良時代末期の部材も残されているそうだ。

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この写真はその拝殿の前に咲いていた橘。橘といえば思い出すのが古事記にある多遅麻毛理(タヂ゙マモリ・・・日本書紀には田道間守とある)の伝説である。かつて橘を非時香菓(トキジクノカグノコノミ)といっていた頃の話である。

新羅の国からの渡来人の子孫である多遅麻毛理は11代天皇の命により、非時香菓を求めて常世の国に渡る。艱難辛苦の末、ようやく日本に戻ってきた多遅麻毛理は葉附きの枝と果実附きの枝を手にしていた・・・が、その果実を心から待っていた垂仁天皇はすでにこの世の人ではなくなっていた。多遅麻毛理は手にしていた橘の半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵にに捧げ、その畔で泣き叫び続け・・・そのまま死んでしまう。近鉄橿原線で南に向かう時、尼ヶ辻の駅を過ぎたあたりに右手に見える巨大な御陵がこの垂仁天皇の御陵であるが、その広い周濠の片隅に小島の様な塚が浮かんでいる。多遅麻毛理の墓である。彼の垂仁天皇にたいする忠義を後人が悼み、その墓を今の位置に設けたと言う・・・

伝説は伝説である。ことが事実であるかどうかは問題ではない。問題はなぜ橘かということである。いつもつやつやとした葉を持ち、薫り高い実を長く実らせているこの柑橘系の植物に古代人は永遠の生命力を感じた。

橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜降れど いや常葉の木

万葉集巻六・1009

葛城王が降下し、橘の姓を賜った時に、聖武天皇が詠んだ歌である。葛城王は以降、橘諸兄と名乗るようになるが、この歌の背後には橘の持つ永遠性が念頭にあることに疑いはない。新たに降下した葛城王の家が、橘の姓を賜ったのも理由は同じである。この家の永遠を願い、聖武天皇は橘の姓を葛城王に授けたのだ。

けれども・・・一時は隆盛を極めた橘家も、藤原仲麻呂の台頭によって衰亡の途をたどったことは、高校の時に日本史で習った通り。そして、その仲麻呂も・・・