大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

携帯電話に寄せて(後)

携帯電話が普及して世の中はどう変わったのか、それが前回の記事を受けた今回の記事のテーマとなる。しかしながら、これから私が述べようとしているのは私の個人的な感慨であり、社会の変化を客観的に眺めてどうのこうのといったレベルの話ではない。そんなことはいつもこのブログにお付き合い願っている方々ならばとっくの昔にご存知のこと・・・あらためて申し述べる必要もないことではあるが、仮に・・・何かの偶然でこのブログにたどり着いた方が、まちがって下記に述べるような事柄を鵜呑みなさってしまったときにどうにもその責任を負いかねるので敢えてここに書き記す次第である。

さて、携帯電話が普及して私がまず初めに困ったのは、公衆電話の数が漸減し始めたことである。仕事がら、大和のあちらこちらと飛び歩き、その先々で訪問先や、自らの職場、あるいは遅くなる時には我が家にと、こまめに連絡をとる必要が私にはあった。そんな私にとってかつて公衆電話は生命線であった(ちょいと大袈裟かな?)。しかるに、携帯電話が普及するにつれて、街角のあちらこちらから公衆電話が姿を消し始めた。

私は何かしら電話しなければならなくなったとき、公衆電話の姿を探し回らねばならなくなった。時によっては、10分んも20分も車を走らせねばならないときもあった。はじめは、なぜこんなにも公衆電話を探さねばならぬのだろう。確かこの前までこの場所に公衆電話があったのに・・・なんて恨み言が脳裏をよぎっても、それが携帯電話のせいだなんて思わずにいた。それからしばらく経って、公衆電話の減少が携帯電話の普及に従ったものであったことを知った時、私は冗談めかしてではあるが、携帯電話ユーザーにかなり辛辣な皮肉も言ったことも記憶にある。

先日、姜尚中の生い立ちを語るドラマの再放送があった。その冒頭が印象的であった。おそらくは大学か大学院在学中の彼が部屋中の小銭をかき集め、近所の喫茶店内にある公衆電話へと駆けつける。その電話の相手は・・・在日1世の彼のオモニである。故郷を遠く離れ東京で学生生活を送る彼の身の上をそのオモニは深く案じていた。そして、彼と彼のオモニの間にあった約束事が月に一度の彼からの定期連絡である。在日1世である彼のオモニは字が読めない。手紙は・・・無用の長物であった。そこで考え付いたのが、公衆電話によるこの定期連絡なのであろう。けれども、彼の故郷は熊本。その昔を思い出せる人ならば、公衆電話のその機材の内部からいかに頻繁に硬貨の落ちる音が聞こえてくるか容易に想像できるであろう。

そう・・・私も故郷を遠く離れ、大学生活を送っていた。彼のように月一回の定期連絡とはいかないまでも、時折は我が子の声を母親に聞かせねばならないぐらいの常識は備えていた。

思い立って故郷に電話しようと思った。まだ若かった私には母親の声などそう頻繁に聞きたいものではなかった(親不孝だなあ)。けれども、母親には自分の声を聞かせたい・・・そんな欲求に押されるのであろう・・・私は公衆電話へと足を運ぶ。テレフォンカードなど出回る以前のことである。私の下宿の近くにあった公衆電話は100円玉の入る性能を持つものではなかった。したがって、私は財布には入りきらない10円玉を用意する必要があった。

なぜならば、仮に私がかけた電話に父が出たとする。簡単な挨拶、互いの安否の確認が終わった後(男親との会話などこれで充分である)、母親を呼んでもらう。母親がたまたまトイレなどに行っていたら、その間最低でも2分は覚悟せねばならない。私の記憶が確かならば当時、奈良・宮城間の通話は10円で7秒・・・母が電話に出るまでの数分、空しく10円玉の落ちる音が聞こえてくる。

もどかしい・・・とてももどかしい時間がそこにはあった。けれども、だからこそ存在しえた・・・情緒・・・とでも言うべきものがそこにはあった。確かにそれは郷愁という言葉の持つ意味を越えるものではない。

けれども・・・私たちは、そんな不便も、そして今ある便利さも知っている。電話による連絡が必要となって来る年齢になった頃から携帯電話なるものが存在していた世代の方々には味わえない情緒を私たちは知っている(××様方 呼び出しなんてのも知っているよ)。

その分だけ・・・私たちは得をしているということなのか・・・