大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

都祁だより・・・都祁水分神社 下

ところで、都祁の地は都が平城の地に移されて後は伊勢へ向かう重要な交通路であった。明日香や藤原の地に都があった頃には、そのまままっすぐ東に初瀬を抜けて東に向かえばそこに伊勢はあった。けれども平城の地に都を移してからはそのルートに都人達はどうも不便を感じていたらしい。

端的に言って遠回りになるのである。平城の地からそのルートを利用するとなれば、いったん上つ道や山辺の道を三輪まで南下し、そこから東進しなければならない。その南下しなければならない分だけ遠回りになってしまうのである。そこで新たに切り開かれたのが都祁山道である。

続日本紀によればその開通は和銅8年(715)、平城遷都の5年後である。平城に遷都した当時の人々が、伊勢をむかうためには以前の道を利用することに不便を感じ始め、新たなルートを開発し、その道を完成させるためには充分な時間である。

この山道がどのようなルートをたどっていたか、私には知りえないが、地図を辿っていささかの考察を加えるならば、現在の天理市櫟本あたりから東に入り、山中に入る。そして同市福住を抜けて、都祁の里へと抜けていたと考えるのが常識的な線でないかと考える。そして、このルートをたどった時、最初に開けてくる場所がこの都祁水分神社のある友田の地である。

万葉集巻一には次のような歌が収録されている。

和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齊宮時山邊御井作歌

山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子どもあひ見つるかも

斎宮とは伊勢神宮に朝廷より派遣され天照大御神に仕える皇女を言うが、その住まう場所をもさす語である。ここはその後者であろう。何の理由かは不詳であるが和銅5年(712)年の4月長田王はその斎宮へと派遣された。この歌はその旅の途中、山邊御井にて詠まれた歌である。山邊御井は一般に三重県山辺町付近とか同県久居市辺りにあったとされているが、寛政3年(1791)発行の「大和名所図会」には

山辺ノ御井ハ気原村ニ在リ

と記されている。気原とは毛原のこと。今の奈良県山辺郡山添村にある地名でかつて毛原寺と呼ばれた大寺のあった場所である。 山添村は都祁の里から見れば東、伊勢へのルート上にあり、都祁水分神社からもほど近い土地だ。ここに山辺の御井伝承地があるのだ。

・・・と、話題が山辺の御井に集中し、どこが都祁水分神社と関係あるのかといぶかしく思われる向きもいらっしゃるかと思うが、次の写真を見てほしい。

Photo00

都祁水分神社の神庭を出てすぐに、その神庭の北の縁沿いに鬱蒼とした木立の中に入って行く小径がある。あたりに漂う霊気を感じながら歩く事、数分、小さな小さな泉に行き当たる。その畔に立つ石碑には「山辺之御井」の文字が深々と刻まれている。そう・・・この場所も山辺の御井の伝承地であったのだ。

私にはいずれの考えが正しいのかは判断できない。ただ歌中に「伊勢娘子どもあひ見つるかも 」とあることからすれば、やはり、この歌は伊勢の国に入ってからのものと考えるのが穏当のような気もするが・・・

ただ、それならばなぜこの地に山辺の御井の伝承があるのか・・・おそらくは次のように考えることができると思う。

平安時代において斎宮は伊勢の斎宮を出てから4日目に大和都介頓宮に宿ることになっていた(江家次第12斎王帰京次第)。斎宮がそこに滞在するとなれば、そこには禊ぎをする施設・・・清浄な泉・・・が必要になる。そしてこの都介頓宮こそ、今、都祁水分神社の存する場所に比定されている場所なのだ。であるならば、そこにある泉は斎宮が禊ぎを行った清浄なる泉・・・山辺の御井との認識がこの地の人々の間に生れても何の不思議はない。この神の社がある地、友田がかつて伊勢に向かう人々にとって重要な場所であったこのと証なのだ。

最後に続日本紀の一つの記事を紹介しておこう。

冬十月壬午。行幸伊勢国。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王。兵部卿兼中衛大将正四位下藤原朝臣豊成為留守。是日。到山辺郡竹谿村堀越頓宮。

続日本紀天平12年740)

天平12年、聖武天皇は突然伊勢への行幸を企てた。10月の29日のことであった。平城の都を太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王。兵部卿兼中衛大将正四位下藤原朝臣豊成に任せた天皇はその日のうちに山辺郡竹谿村堀越頓宮にたどり着き、その地に宿った。この堀越頓宮こそ、都祁水分神社のあった場所なのだ。

以降聖武天皇

名張郡(10/30) → 安保頓宮(11/1)→ 河口頓宮(11/2) → 赤坂頓宮(11/14)→ 朝明郡(11/20) → 石占頓宮(11/25)→ 当伎郡(11/26) → 不破頓宮(12/1)以降省略

と旅を続ける。この行幸の目的はなんなのか、その後のどうなって行ったかについては様々な謎があるが、その点についてはかつて私の別ブログ「家持歌日記」に次のように書いた。

ところで、この年天平十二年は穏やかならぬ年であった。太宰府におられた藤原広嗣殿が下道真備殿、僧玄昉殿の更迭を求め、反乱を起こされたのだ。かの四兄弟がお亡くなりになって朝廷での藤原氏の凋落ぶりに焦りを感じられたのであろうか・・・凋落とは行っても、私にはかの四兄弟の頃が異常なだけであって、今の状況であっても、藤原の家は充分に栄えているとは思うのだが・・・まあ、これは個人的な感慨に過ぎない。広嗣殿には広嗣殿なりの思いがあったのかも知れない。
乱はほどなく鎮圧されたが、これに前後し帝は急遽、東国への行幸を挙行された。何もこんな時にと思い惑うのは私だけではなかった。けれども、帝には帝なりの思いが逢ったに違いない。
・・・そんなふうに思い始めたのは、行幸を始めてどれだけたった頃であっただろうか。その道のりにふと思い当たるものがあった。伊勢・・・不破・・・近江・・・これは天武の帝がかの壬申の大乱の際に進んだ道のりではないか・・・ほんの僅かの舎人を引き連れて、吉野を出奔なされた天武の帝・・・いや、その時はまだ皇子でいらっしゃったか・・・は伊賀を越え伊勢に向かい数万の軍勢となり、不破を通って近江の都と陥れになられた。
今の帝はこれに倣おうというのか・・・そして、その力をもって広嗣殿を・・・いや、伊勢にいた頃にはもうこの反乱が収まったとの報告が入っている・・・帝は久々におくつろぎになり鷹狩りなどを楽しんでおられた・・・ならばなぜ・・・。
今にして思えば、天平と年号が変わってから何かしら落ち着かぬ日々が続いていた。先ずその始まりが長屋王様の御一件、そして天然痘の流行、そしてこの度の反乱、帝のお心はお疲れになっていたのであろう。この国をお治めになる帝のお心の衰えはとりもなおさずこの国の衰え・・・帝はそれを憂えていらっしゃった。この国を再生させるためには自らの魂魄を再生しなければ・・・帝はきっとそのように思われたに違いない。それがこの道のりではなかったか。

「家持歌日記」は大伴家持になりすまして書いているブログゆえ、そのあたりを考慮に入れ読んでいただきたい。その考えたことは、どこまであたっているかは、はなはだ心もとないが、描かれている事実の正確さにはそう大過はない。聖武天皇は伊勢を目指すその道すがら、確実に都祁の里に宿ったのである。

伊勢に向かう天皇が都祁の地に宿ったこと、そして斎宮が伊勢より帰途この地に宿ったこと・・・それは、この地が平城の都から、あるいは平安の都から伊勢へと向かう正式なルートであったことを証明している。