大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

天武天皇と薬師寺

以前から私のブログ中においてしばしば触れていることではあるが、過日、当ブログにおいて述べた本薬師寺・畝傍山・薬師寺の位置についての記述をやや詳しく整理し直そう。そのためにはこの薬師寺という寺がいかなる由来を持つ寺であるかもあわせ述べなければならない。やや煩雑な文章となろうが以下おつきあい願いたい。

薬師寺の建立は前回にも述べたとおり、天武天皇の発願によって始められた。天武天皇はご存じの通り672年、壬申の大乱に勝利し明日香浄御原宮においてその政務に就いた古代の英雄である。その後、日本書紀によれば680年、後に即位し持統天皇となる鵜野讃良(ウノササラ)皇后は重い病に苦しみ、夫である天武天皇はその病気平癒を祈願してこの薬師寺の建立を発願しただという。この事実は、現存する薬師寺東塔の擦(サツ)管(屋上に出た心柱を被覆する銅管)に刻まれた銘文にも次のように記してある。

維(コ)れ、清原宮(キヨミガハラ)に馭宇(アメノシタシラシシメシ)し天皇、位に即きたまいて八年、庚辰の歳、建子の月、中宮の不豫(フヨ)なるを以て、此の伽藍を創る。

けれども、当の本人である鵜野讃良の病は回復したものの、その建立を発願した天武天皇自身は、686年、その完成を見ずして崩御してしまった。が、その意志は持統天皇文武天皇と受け継がれ、698年にその造営がほぼ終了した。その巨大な伽藍は、藤原京の右京八条三坊の地に位置していた。現在橿原市城殿町にその寺跡が残す本薬師寺跡がそうである。この寺の伽藍配置には、これまでの寺院とは決定的に異なるものがあった。それ以前の日本の寺院の伽藍配置は、どの寺においても塔は一つであった。しかしながら、この薬師寺は初めて東西一対の塔を持つ新様式であった。壬申の大乱を勝ち残り天武天皇の強大な権力を誇示するものに他ならない。そして、その東西の塔を結ぶラインが正確に畝傍山の山頂を指し示しているのである。

さらに、この薬師寺平城京への遷都と共に、718年其の右京六条坊に移築され、730年にほぼその造営は完了する。この際、この巨大な伽藍が文字通り移築されたものなのか、再建されたものなのかは異論があるにしても、その跡地の発掘によれば、その建物の規模、位置関係はほぼ同じであり、移築に際しては、前にあったその寺を正確に再現しようとした意図が読み取れるという。そして、この移築された薬師寺もまた、約20km南に位置する畝傍山の山頂に正対しているのである。

薬師寺は初め畝傍山の頂の東に正確にその東西の塔を位置させ、そして今、畝傍山の頂を南方約20kmに正確に見晴るかす場所に位置しているのである。

この事実は、かつての、そして現在の薬師寺が畝傍山を意識してその建立の場所を定めていたという考えを必然的に導くが、その考えをさらに確かなものにしようと思えば、ならばなぜ薬師寺は畝傍山を意識しなければならなくなったのかを明らかにしなければならないだろう。

なぜ、畝傍山なのか・・・

そこにはこの寺の建立を発願した天武天皇の意志乃至は遺志が働いていた・・・というのが私の考えである。長くなるが、さらにおつきあい願いたい。

話は大陸、時代は秦の始皇帝の時代まで遡る。大陸を統一した始皇帝はその領土を5度にわたり巡行する。それは2度目の巡行、渤海のほとりにおいてであった。周知の如く、秦は内陸の国。始皇帝にとっては初めての海であった。彼はその広大な景色をいたく気に入り、その海岸の地に例を見ない長逗留をしたという。

ある日のことであった。昨日まで洋々とした海原にはなんの島影も見えなかった。けれども、その日、その遙か沖に、まぶしい光の中に揺らめく陸地が姿を現した。始皇帝をはじめとした一行が、この奇なる事実に肝を抜かしたことは言うまでもない。今ならば、それは蜃気楼だ・・・と済ませてしまうことであろうが、如何せん、彼等にはその知識がない。・・・神仙の地・・・・彼等の脳裏に浮かんだのはこの言葉である。人あって始皇帝に言う。 「渤海東方の沖には蓬莱(ホウライ)、方丈(ホウジョウ)、瀛洲(エイシュウ)の三神山がある。そこに神仙が住まいし、永遠の生命を約束する仙薬があると・・・」 。今の始皇帝には恐れるものは何一つ無かった。あったとすれば、彼が人間である限り避けることの出来ない命の終わり。 始皇帝はどうしても、その仙薬を手に入れたいと思った。そして、そこに現れたのが徐福という方士(不老不死の術や医術・易占などを行う者)であった・・・・

世に言う徐福伝説である。

なぜ、ここでこんな話が出てきたのか、いぶかしく思う方がおられるかも知れない。けれども、この話の根幹にある漢民族の土着的・伝統的な宗教である道教は日本にも強く影響を与えていたことは日本書紀の記述のあちらこちらに見ることが出来る。特に話題の中心である天武天皇道教に対する傾倒ぶりは並々ならぬものであったらしいことは、次の例からも窺い知れよう。

  • 天皇」の称号を使用しはじめたこと このことには異説もあるが多くの支持を得ている学説であることは事実である。しかして、この「天皇」いう称号が道教のにおいて北極星を意味する天皇大帝採ったものだという。いうまでもなく、北極星は北半球に住むものにとって、天空の中心たる存在である。
  • 八色の姓(ヤクサノカバネ)を制定しその最上位に「真人(マヒト)」をおいたこと「真人(シンジン)」とは道教において理想とされる人間像である。
  • 陰陽寮の設置 、いうまでもなく、この陰陽寮陰陽道をつかさどる役所。そして陰陽道とは古代中国国の占術・天文学の知識を消化しつつ神道道教などの様々な要素をとりいれて日本特異の発展を遂げたものであり、とくに道教の影響は色濃く残っている。

そして何よりも天武天皇自身の天渟中原瀛真人天皇(アマノヌナハラオキノマヒトノスメラミコト)という和風諡号はその道教への傾倒ぶりを如実に物語っている。太字で表記した瀛真人とは上の話の中にあった三神山のうちのひとつ、瀛洲にすむ仙人のことである。この和風諡号が文字通り諡号であって死後に贈られた名であるか、諱(イミナ=実名)であるかについては説が分かれてはいるが、いずれにしろ天武天皇の人となりを表した名であることは疑う余地はない。

また、先に述べた薬師寺東塔の擦管の碑銘には上記の一文に続いて天武天皇崩御を「龍駕騰仙」と表現している。「龍駕騰仙」とは龍に乗り、仙境に至ることを意味する。ならば、その仙境とは何処か・・・・その瀛真人の名の示すとおり瀛洲であると考えるのが穏当化と私は思う。天武天皇の魂魄はその現し身を離れ、龍にまたがり三神山の一つ、瀛洲に至ったのである。

そして畝傍山こそが天武天皇が瀛洲と見立てた聖なる山であったのだ。だからこそ、彼がその建造を強く願った薬師寺が、かくまでに強く畝傍山を意識した位置に配置されたのである。

ここで白状しなければならないことがある。以上述べ来ったことは何も私が新たに気のついたことではない。以前読んだ雑誌の受け売りで、今回の話の概要はその雑誌にあった内容を敷衍したまでである。雑誌名は『大和路ならら』。そこに「天武天皇薬師寺」と言う名の連載をたまたま見かけ、その連載記事のほんの一部を詠み齧り、その説くところをなぞったのみである(無論私の読み間違いも含まれるだろう)。書いているのは古美術写真家の小川光三氏。以前書いた「太陽の道」を考えた方だ。本来なら、その連載を全て読み、氏の説くところを充分に理解してから皆さんにご紹介するべき事ではあるが・・・なにせ出先にたまたまおいてあった雑誌故、じっくりと目を通すこともできなかった。が、それを読んだ私の中にいくつかの疑問が生じてきたことはここで言っておかなければならない。

とはいえ、その疑問は小川氏の御論に対しての疑問ではない。氏のおっしゃることを是とした上で、そこから派生してくる疑問である。以降、その疑問に対しての私なりの答えをお示ししたいと思う。私は、小川氏の「天武天皇薬師寺」の全てに触れているわけではないので、ひょっとしたら氏は私が読んだ範囲以外のところですでに触れていることかも知れない。ただ、残念ながらそれについては目にする機会がなかったので、以下は私のみに文責がある。

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