大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

三山鎮護の思想の源流

前回の記事は、天武天皇がこのような立地に藤原京が造営を企図したことから逆に照射して、大和三山が道教における三神山と意識していたということを立証しようとしたものだった。三山鎮護の思想がその企図の裏に深々と存在していたことを私なりに追求し得たと思う。

では、この三山鎮護の思想の源流は何処にあるのか・・・・

今回はそこに焦点をあてて話を進めてみたいと思う。

道教が古代の中国の土着的、伝統的宗教であることは周知の事実だ。そして、通説によればこの道教は仏教と同じ頃我が国へと伝来したという。それは、仏教がそうであったようにおそらくは中国から直接入ってきたものではなく、朝鮮半島・・・百済・・・経由で我が国へと流入してきたものであろうと推定される。ただ、仏教のそれとは違い、あまり詳しい記録は残っていないので、その初期の受容の実態は良くは分からない。

しかし、時代がやや下り、皇極天皇の時代になると道教はその影響を確実に我が国の政治の場に影響を示し始める。

例えば、舒明天皇陵。

皇極天皇舒明天皇の皇后で、夫である舒明天皇崩御した後、皇位についた。我が国最初の女帝である。その彼女が造営させた舒明天皇の陵墓である押坂内陵は、他には例を見ない八角形をしている。そしてこの陵墓の形態は、このあと、この皇統においては通例化し、斉明天皇陵(皇極天皇は後に重祚し、斉明天皇となる)、天智陵、天武・持統合葬陵、そしてその子草壁皇子、さらにその子の文武天皇まで受け継がれる。はたしてこの八角形というのは何を意味するのか。

万葉集を見ると「やすみしし」という枕詞が散見する。これは「安見知し」あるいは「八隅知し」の意味で「わが大王(オホキミ)」にかかるとされている。この場合「知る」とは「統治する」と言う意味に等しいが、そこからこの語を解釈したとき、この「やすみしし」という枕詞は「安らかにこの国を統治したもう」或いは「この国の全てを包囲(八隅)を統治したもう」との意味に解することが出来る。そして、ここで注意したいのは後者である。「八隅」すなわち「八方」が東・西・南・北、そしてその間の北東・南東・南西・北西を意味するのは言うまでもない。「知る」ということはすなわち統治するの意。「八方」を統治する・・・すなわち、国土の全てを統治するの意になる。そして、この八方をもって全世界とする世界観はまさしく道教の世界観そのものなのだ。

実は舒明天皇は、はじめからこの陵墓に葬られていたのではない。死後かなり大規模な葬送の礼をもって一端は別の場所に葬られていたのだ。ところがその陵墓はその次の年には捨て去られ、押坂内陵への改葬が挙行される。この改葬の意図は・・・・世界の中心たる王は、道教的な世界観に基づき、生前はもとより死後もなおその中心にあらねばならなかったのだ。

もう我が国における道教の定着を示す一つ例を挙げてみよう。

また、ある年、大和はひどい干ばつに襲われた。いかなる神に雨乞いをしてもその効はなく、ついに時の権力者、蘇我蝦夷が動いた。寺々おいて大乗教の転読を行わせ、自らは諸仏像を厳かに居並ばせ、自分も香をたき。雨を乞うた。雨は・・・「微雨」と日本書紀にはある。こうなっては、皇極帝が出てくるしかない。皇極帝は明日香川上流、南淵川の岸において、跪き、四方を拝した。すると、すぐさま激しい雷雨となり、その雨は五日続いたという。この際注目したいのは四方を拝したという帝の所作である。これは後に宮廷に定着する「四方拝」の原初的なスタイルに他ならない。そして、この儀式はそのルーツを道教に持つ。

もちろん、ここには皇極天皇の権威が蘇我氏を凌ぐものであったことを語ろうとする一種の虚構が存するかも知れない。なればこそ最終的に皇極天皇道教の祭礼を行い雨を降らしめたという事実は、当時の朝廷において道教がいかに重要視されていたかを如実に感じ取ることができる。そして、このあたりから日本書紀において道教の影響を感じさせる記述があちらこちらに見られるようになる。

その朝廷内の空気は、そのまま自らもまた道教に長けた存在となり得た天武天皇へと受け継がれる。となれば、その天武天皇が、構築した新京、藤原京がその影響を受けないはずはない。

七世紀前半の朝鮮半島においての道教の流行が陰を影を落としていたと言われているが、私にはそれを確認するすべはない。ただ言えるのは、その朝鮮半島においての都城の形態にも、やはり三神山の思想が影響を及ぼしていることである。

たとえば日本と古くから親交があったと言われている百済

朝鮮半島の史書の一つ、「三国遺事」によれば、その王都は日山・呉山・浮山の三山に守られていたという。これは、現在の錦城山・鳥石山・野山がそれに比定されるという。ただ、これは、藤原京のそれとは違い、東西に一列に三山が配置されている。これに対し、同じく朝鮮半島の史書「三国史記」によれば、新羅の王都にも奈歴・骨火・穴禮という三山があったという。そして、その三山、それは大和三山と同じように三角形の配置になっているという。ということは、藤原京(ひいては平城、平安の両都城)における三山鎮護の思想は新羅の都作りのそれにより強く影響を受けていたことになる。

その際に気にかかるのは天武天皇の時代の国際状況である。上にも少し述べたが我が国は古来百済と深い進行を持ち続けていた。そして新羅とは、天武天皇の即位からさかのぼること10年前に激しい戦闘を繰り広げている。白村江の戦い最終戦とする百済救援の戦争である。

少し、当時の国際状況を見てみよう。

660年、新羅よりの救援を依頼された唐は兵をおこす。同年百済は滅亡するがその再起をかけて倭国へと救援を要請する。半島への影響力拡大をねらった時の倭国斉明天皇は承諾し、国を挙げての支援を行うべく661年自らも九州へとおもむいた。しかしながら斉明天皇はその地にあって、急死。中大兄皇子によって百済支援は継続された。

663年、倭国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐する。百済の再起を知ったて唐は増援し、唐・新羅連合軍は、水陸併進して、倭国百済連合軍と対峙する。そして、最終決戦・・・・「白村江の戦い」である。結末は言うまでもないであろう。

戦後、国を失った百済の王族達は退去して倭国へ流入する。その後我が国が百済の持っていた進んだ大陸文化の影響を強く受け、近江朝の文化興隆の時代を迎えたことはいうまでもない。となれば、その後を引き継ぐ天武朝において、百済の文化の影響が強く残されていただろうことは容易に推測できる。しかるに、藤原京を鎮護する三神山は百済のその形態ではなく、新羅のそれを模倣したものになっている。近くない過去に激しく敵対したところの新羅のそれをである。

問題は、この戦いで敵対した唐と新羅との関係である。中大江皇子は、この勢いをかっての両国の侵攻を恐れ、その防備に心をくだいたが、それは杞憂に帰した。唐がわざわざ、捕虜となった兵を送り届けてくれたようなフシもある。新羅新羅で、いったんは唐に助力を要請はしたものの、今度はその唐が脅威になり始めた。朝鮮半島の覇権をめぐって、今度はどちらの国も倭国の力を必要とし始めたのである。そんな中、天武天皇が即位する。天智天皇の時代には数度あった遣唐使派遣が、天武・持統の時代には一切行われていない。それに対し、遣新羅使は三度派遣されている。これは、天武天皇外交政策のスタンスを示す事実であると言えるだろう。

そして、最も興味深いのはその遣新羅使に任命されたある一名である。681年に派遣された采女臣竹羅(ウネメノオミチクラ)だ。彼は理由は分からないが、その後684年、信濃の国の地勢を見るために派遣されている。日本書紀の編纂者達もこの事実をいぶかしがり、あるいは遷都候補地のの検分かと疑いを差しはさんでいる。この、采女臣竹羅の動きはいったい何を意味しているのだろうか。

遣新羅使として新羅の王都をとくと検分してきたであろうこの竹羅に、遷都の候補地の検分とも思われるようなことを天武天皇は命じた。素直にこの事実を受け取るならば、それは新たに計画している都城の、そのモデルになるであろう新羅の王都をその脳裏にしまい込んだ竹羅に信濃の地に、それにふさわしい場所を探させていたという結論にいたるであろう。

そして、それにふさわしい場所は信濃の国には見あたらなかった。おそらく、天武天皇は、他にも新たな都城にふさわしい土地を探していたであろう。そして、最終的に落ち着いたのが大和三山に囲まれた藤原の地であったのだ。そこは、まさしく竹羅から伝え聞いた新羅の王都のイメージと同じ、三山の懐に抱かれた、めでたい場所であった、そして、四神の守りも申し分ない・・・

人あって言うかも知れない。藤原の地であるならば、明日香からほど近い場所。なにもよそを見に行かなくともはじめからそこに決めることが出来ただろうにと・・・確かにそうかも知れない。しかしながら、王都を定めるという事業はより完璧を求めなければならない。そのためには、他の可能性のある場所も見ておく必要は皆無とは言えない。このようにして藤原京造営の計画は定まった。後はそれを実行に移すのみであった・・・・・