大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

天武天皇と薬師寺、大和三山と藤原京・・・そして・・・

以上、長々と述べ来ったことをまとめれば次のようになるだろう。

  • 薬師寺が、大和三山の一つ、畝傍山を強く意識して建立されたと言うこと
  • そこには天武天皇の意志が反映されていたと言うこと
  • それは天武天皇が執心した道教の発想によっていたと言うこと
  • そして、その発想の根元には大和三山が道教における三神山との見立てがあったらしいこと
  • 最後にその意識を元に藤原京の位置が定められたであろうと言うこと

天武天皇と薬師寺

大和三山と三神山

藤原京の位置についての小考

三山鎮護の思想の源流

かなり想像に身を任せて論(と言うほどのものでもないが)を進めたところもあり、これが真実だなんて私自身も思ってはいない。ただ、今、私自身が確かめうる事実を元に、想像の翼を拡げ、その飛翔を楽しんだだけのこと。この記事を読まれた方も、その事実をふまえ、また別の飛翔を楽しんで頂けたのであるなら幸いである。

けれども、何から何までもが想像の産物というわけではない。必要な部分は、先行する諸賢の綿密な研究の成果も踏まえたつもりである。皆さんのうちの誰かが、かかる知見は以前、何処かでお目にかかったことがあるぞとお思いになられたなら、おそらくその部分がこれに相当していると思う。

まずはこの一連の文章の発端となった、畝傍山と薬師寺の位置関係についての一節。これは文中にも触れたように飛鳥園代表取締役小川光三氏が奈良のミニコミ「月刊大和路ならら」によせられた一文である。また同誌の2009年9月号(132号)にはやはり藤原京と三山鎮護の思想についての一文(筆者がちょいとわからない)が収録されていることも申し添えておこう。けれども、そこにいかなる論が展開されているか、残念ながら未見ゆえ明らかではない。かりに今回の一連の私の文章と同じことが書いてあるとすれば、私は自分の不勉強のそしりを甘んじて受けねばならないであろう。

そしてもう一つ・・・大和三山と三山鎮護に関する一説においては奈良大学教授上野誠氏の

 

  にかってに教えを受けた部分が多い。

「月刊大和路ならら」のほうはローカル色の強い雑誌ゆえ手に入りにくいこともあるかと思うが、上野氏の御著書は全国どこの書店でも手に入りやすいもの、ご一読をお勧めする・・・

とはいえ、この辺りの著作に目をお通しになれば拙文など読む価値のないものとなり、その意味では少々複雑な思いなのだが、こればかりは仕方ない。自らの浅学菲才を悔いるばかりである。

ところで、その浅学菲才の私が自らあたうかぎり学び得たことのあらかたが上記の4回にわたる記事であったが、若干ながらまだ漏れ落ちているものもある。以下、簡単にその点について申し添えてこの一連の乱文を閉じたいと思う。

藤原京持統天皇の御代にその造営が始まり、遷都も行われたが、その計画はすでに天武天皇の御代にあったと言うよう な内容のことを、この連続記事の中で書いた。これは日本書紀などの記述から、天武天皇が遷都を計画していたことが窺い知れること、述べてきたとおりである。

ここで蛇足ながら、もうひとつ申し添えたい事実がある。

それは、天武天皇の陵墓の位置と藤原京のかかわりについてである。

天武天皇は今、妻である持統天皇と共に檜隈大内(ヒノクマノオホウチ)陵のお鎮まりになっている。この御陵は古代の天皇陵としては珍しく、鎮まりになっていらっしゃる天皇とがはっきりとわかっている御陵であるが、その位置は・・・・

藤原京の中枢、藤原宮の中心は、先に述べたように大和三山の中央に位置する。そしてその中央部からまっすぐに南にのびる道が、この都のメインストリート、朱雀大路である。天武天皇の御鎮まりになる檜隈大内陵は、この道の延長線上に位置しているのである。

これはその妻、持統天皇天武天皇の遺志ないしは意志により作り上げた藤原京を見守ってほしいとの願いから、その位置に夫の墓所をさだめたのだと考えるのが素直な考えだと思う(あるいは天武天皇自らの遺志、なぜならばこの御陵の造成は天武天皇存命の頃には始まっている)。

そしてこのラインは歴史学者岸俊夫氏により聖なるラインと名付けられた。ただ、その振幅がやや大きいゆえ、最近では聖なるゾーンと呼ばれるようになっているらしいが、終末期の古墳の群集地として名高い。

そしてここから先が問題だ。これはあまりにも突飛な故に、あまり指摘しておられる方も多くないように思われる事実であるが・・・

私はちょいと遊び心を起こしてそのラインをずーっと北に辿って行ってみた。行っても、行っても何もない。私がその遊びをやめかけた時私に目にはとある天皇の御陵の名が入ってきた。

天智天皇の御陵である。

これが、他の天皇の御陵であったり何かの聖地である・・・なんてことだったら私はただの偶然かな・・・なんて思っただろう。

けれども、そこにあるのはほかならぬ天智天皇墓所である。ともに改新の大事業に取り組み、その死後にはその子大友皇子とこの国の覇権を争った(壬申の乱天武天皇墓所がその真南に位置するとあってはこれはただの偶然などとは思えない。

ただ、そこに何らかの意図がはたらいていたのかどうかなんてことは、私にはどうにも思いつかなかった。おそらくは何にもないだろうというのが本当の所だろう。けれども・・・それでも、何かあるのではと思ってしまうような位置関係にこの兄弟の墓所は位置しているのである。

私の言うべきことは以上である。あとは皆さんがご自由にお楽しみいただきたい。