大和逍遥   

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小夫天神社・・・中(笠縫邑伝承)

さて、今回も引き続き私の通勤路途上にある小夫天神社について・・・

この神社のたたずまいについては前回の記事において私なりに紹介しえたとは思う。今回はその主祭神天照大御神大来皇女がなぜこの鄙びた社に祀られているのかについてである。

天照大御神は言わずと知れたこの国の最高神、伊勢の国に鎮まりおわすかの太陽神である。それでは大来皇女とは・・・はたして、このお二方がなぜこのお社の中央に一緒に祀られているのか・・・

その鍵は前回お見せしたこの写真の石塔にある。

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笠縫邑・泊瀬斎宮の二つの旧跡であるという伝承がこの小夫天神社にはある。ならば倭笠縫邑・泊瀬斎宮とはなんなのか?

まずは笠縫邑について。

皆さんは「元伊勢」という言葉をご存知だろうか。今、伊勢の地に鎮まりおわす天照大御神は実ははじめから伊勢の地にいらっしゃったわけではない。

 日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。

とは、天理市にある大和神社の由緒書きであるが、ここにあるように皇祖神天照大御神崇神天皇の御代までは、大和神社主祭神と日本大国魂大神とともに宮中内に祀られていた。しかしながらこの二神の神威はあまりにも強力であった。日本書紀に次のような記述がある。

五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。 六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭。然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭。

日本書紀崇神紀)

崇神天皇の5年、国中に悪い病が流行し、民の大半が失われ、6年には民の流離が甚だしく、謀反する者も出てきた。多くの神々に尋ねたところ、この二神が同所に祀られているのがその原因であるということが分かったので「敬して遠ざく」の言葉よろしく、この二神を別の所に所に祀ることになったというのである。

そして宮中を出た天照大御神はまず倭笠縫邑に鎮座した。その後、理想の鎮座の地を求め、豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)命は天照大御神とともに各地を転々とする。途中、その任は倭姫(ヤマトヒメ)命に引き継がれ、90年の歳月を経て今ある伊勢の地にこの太陽神は鎮座することと相成った。その際に一時的に天照大御神を祀られたという各地の神社を元伊勢と呼ぶ。笠縫邑はその第一号地のいうわけである。そしてこの小夫天神社がその笠縫邑だというのである。

ただし笠縫邑の伝承は他にも、檜原神社(桜井市 )、多神社( 田原本町多)、笠縫神社(田原本町秦荘)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、穴師坐兵主神社桜井市穴師)、飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)があり、この小夫天神社はその候補地の一つに過ぎない。しかしながら、その候補地として挙げられているということは、天照大御神が祀られた社がこの地に存在していたことを示すものであり、その事実がこの小さな社に皇祖神天照大御神が祀られる由来となったのであろうかと思われる。

次は泊瀬斎宮について・・・ではあるが、少々長くなってきた。次回、稿を改めて知りうるところを述べてみたいと思う。