大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

小夫天神社・・・(初瀬斎宮考)

笠縫邑について述べた後は、大来(オホク)皇女について述べなければならない。この記事のそもそもの始まりの小夫(オオブ)天神社からはだいぶ話がそれてきたがやむを得ない。

大来皇女万葉集では大伯皇女とも書くが、日本書紀では大来皇女と表記している。この悲劇の皇女については別に詳述してあるのでそれを参考にしてほしいと思う。まだ未整理で話があちらこちらに飛んでいるが、ある程度事情は把握していただけるかと思う。

http://soramitu.net/zakki/?page_id=1911

その大来皇女が伊勢斎宮の任を賜ったのが天武天皇の二年。日本書紀には次のように記されている。

夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是先潔身、稍近神之所也

そしてその翌年、天武天皇の三年には

冬十月丁丑朔乙酉、大來皇女、自泊瀬齋宮、向伊勢神宮

とある。

おぼつかない解釈を示せば、

天武天皇の二年の四月、天武天皇の命によって大来皇女は伊勢の天照大御神に仕えることとなった。それに先立って皇女は潔斎精進に務めなければならない。その場所として選んだのか泊瀬齋宮、すなわちこの大夫の地である。皇女はこの地にとどまる事1年と半、いよいよ伊勢へと旅立った・・・

となる。

伝を信用するならば、前回述べた倭姫あたりが伊勢の斎宮の初めとなろうが、実質上の伊勢斎宮の嚆矢は、この大来皇女と考えるのが穏当であろう。天武天皇はそれほど伊勢の天照大御神を重視していた。なぜならばあの壬申の大乱に勝ち残ることができたのはその大神の神威のおかげだからである。

ともあれ、大来皇女は伊勢の斎宮に選任された。そしてその任に就くために必要な精進潔斎の場、初瀬斎宮がこの小夫の地にあり、その跡地がこの天神社なのだ・・・

そのことを裏付けるように、この社のやや西に化粧川なる川が流れ、初瀬川に注いでいる。そしてその上流には化粧壺と呼ばれる淵がある。大来皇女はここの清き流れに身を清めたとの伝説が残る。

だが、しかし・・・ここもまたその候補地に過ぎないことを私はここで告白しなければならない。かつて私は、これまた私の通勤途上にある脇本遺跡について紹介したことがある。

http://soramitu.net/zakki/?p=1434

この記事の末尾に付け加えたリンク(朝日新聞)にちらっと書いてもあるのだが、この脇本遺跡もまた初瀬斎宮跡の候補地。

なにせ日本書紀を初めとした諸記録はその詳細な位置を示してくれてはいない。手当たり次第に傍証をあつめて、そこから類推してゆくしかない。

となれば、化粧川・化粧壺のある小夫が優勢か・・・

さにあらず・・・ここ脇本もその目前に初瀬川の清き流れはある。しかも明日香の地から伊勢へのルートを考えた時、小夫まで道を振るのは少々遠回りだ。最短のルートを考えるならば、この脇本の地から初瀬街道をまっすぐに上り、かつて父天武天皇が吉野より伊勢に逃れる際に通ったルートに合流するのが筋・・・

はてさて・・・初瀬斎宮の所在は何処・・・

私にその答えを探す力量はない。ご興味を抱いたお方は、ぜひご自分で・・・そして、まことに厚かましいお願いではあるが、よろしければその答えをこの私にこそっと教えていただけば幸いこれに勝るものはない・・・・