大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

お散歩・・・10・7(飛鳥寺西方遺跡)

IMGP0105

先日の記事でも紹介した蘇我入鹿首塚である。なぜ再び同じ写真をこうやってお示ししているかというと・・・

入鹿の首塚の向こう側(西側)、掘り下げてシートが掛かっているようですね。発掘中でしょうか? 

との質問が玉村の源さんよりあったからだ。そのあたりの調査に怠りのある三友亭ではない(笑)。以下にその調査の程を示す。

玉村の源さんのご指摘の通りこのシートの下には現在発掘中の遺跡がある。その名は「飛鳥寺西方遺跡」。何ともまあストレートな名称である。

IMGP0107

この遺跡は飛鳥寺西門跡の西側に南北に200m、東西に東西120m広がっており、「日本書紀」には「法興寺槻樹下」あるいは「飛鳥寺西槻下」としてしばしば登場する場所である。ここにまつわる話で、とくに有名なのは大化の改新を前に中大兄皇子中臣鎌足が蹴鞠を通じて知り合ったという逸話であろうが、他にも隼人や蝦夷などの、当時やっとのことで朝廷に恭順を示し始めていた辺境(もちろんこれは大和を中心としての用語だが)の民を歓迎する饗宴がひらかれていたとか、壬申の乱のときに飛鳥を守るための陣営が張られていたとかいう形で出て来ている。

遺跡の傍らにあった説明書きに、この遺跡についての日本書紀の記事を抜き出したものがあったので下に示しておく。カーソルを写真に合わせクリックしていただければ、なんとか読める程度には拡大されると思う。よろしければお読みいただきたい。

IMGP0111

蹴鞠が行われ、饗宴が催され、そして戦の際に陣が張られるとなれば地形はどうしても開けた場所でなければならない。そこに槻の木を中心とした広場があったことを想像しなければならないのだ。

さて、この遺跡の発掘の進捗状況であるが、これまでの調査で石組みの溝、石列、土管の暗渠、石敷き、砂利敷き、素掘りの溝、木樋、掘立柱の塀が発見されている。今行っている部分の調査は、飛鳥寺西門の門前がどのような景色であったのか。また槻の木広場とどう関わっているのかを明らかにするのが目的であるらしい。

IMGP0106

上の写真はその遺跡の東端に立ち、東に位置する飛鳥寺を望んだ写真である。飛鳥寺のかつての名は法興寺。仏法がこの国に興隆することを願って建てられた日本最古の本格的な寺院である。そして、その建立に携わったのは蘇我馬子。排仏派の物部守屋とこの崇仏派の馬子との確執、そして争いについては古代史においてあまりにも有名な出来事であるが、その馬子が建立に大きくかかわり、しかも創建の後、馬子の子の善徳が寺司を務めたとあれば、この寺と蘇我氏との関わり合いが必然的に知られてくる。しかもこの寺西方わずか200mの甘樫が丘には、この寺を見下ろすかのごとく、蘇我氏の邸宅がある。

だとすれば・・・・この槻に木を中心として開けていたであろう広場には常に蘇我氏の目が光っていた・・・とも考えられなくはない。そんな場所で反蘇我氏の旗手、中大兄皇子中臣鎌足の親交が始まったとは・・・

<続く>