大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

春日大社へ行く・・・4

春日の御神に2礼2拍手1礼のお決まりの祈りをささげた後、私はこの春日の御神の若宮のもとへと向かう。若宮は、ほんの1,2分、ここまで歩いてきた参道をさらに春日の森の奥へと入ったところにある。

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件の石燈籠がまだまだ奥へと続く。そしてその先に見えてくるのは・・・

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春日大社若宮である。

さらに近づいて・・・

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赤く鮮やかな瑞垣の向こうに、おなじく鮮やかな朱塗りの本殿が見える。祭神は天押雲根命(アマノオシクモネ)。春日大社本宮に祀られている天児屋根命の子供であるそうだ。なんでも正しい知恵をお授けくださる神様だという。これはしっかりのお祈りせねばならぬ。

そういえば、以前この若宮の本殿の作りが春日本宮に祀られる四神の本殿の姿は同じであると聞いたことがある。さすれば、我ら凡人には見ることあたわぬ春日本宮の本殿の姿を、ここに髣髴するべきであろう。

本殿を背にして振り返ると

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一つ屋根の下に見事なまでに清浄な二間。拝殿なのだろうか、若宮に向かって開けた上の間がある。本殿から向かって左が板の間、右が畳の間。置いてあるものを見るとここで楽でも奏されるのだろうか・・・

奈良時代遣唐使に派遣される人々は出立の前にこの若宮で旅の無事を祈ったという。さらには、若宮の祭神が正しい知恵をお授けくださる神とするならば、これから唐土の地にて新しい知識を吸収して来ようとの意慾に溢れた若者たちにはもってこいの神であったのかもしれない。717年、遣唐使船に同行した若者、阿倍仲麻呂もその一人であった。

才に恵まれ唐土にて身を立てた仲麻呂はそれでも大和の地を恋うていた。けれども結局、故郷日本に帰る事のあたわなかった秀才は、753年のある日・・・いよいよ日本に帰る・・・そんな旅の出立の日の日を迎えていた。彼は歌う。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

余りにも有名な一首である。「春日なる三笠の山」とはこの若宮本殿の背後にある御笠山のことだ。仲麻呂は留学生として唐土に出立する前、この拝殿において黒々とした御笠山の姿を見ていた。そして・・・その山上には見事なまでに輝く満月が・・・

「出でし月かも」の「し」は過去の助動詞の「き」。いわゆる直接体験の過去である。となれば、仲麻呂は御笠山上空の満月を確かに見ていたのだ。そしてはるか離れた唐土において、かの日見たその月を思い出す。36年後のその日にである。

けれども、その帰郷の夢がかなうことはなかった。752年に来唐した藤原清河の率いるところの第12次遣唐使一行の帰途に紛れて彼は帰郷を図る。けれども仲麻呂の乗った船は暴風雨に遭い南方へと流され日本に帰る事は出来なかった。2年後失意のうちに仲麻呂は長安に帰る事になる。

以降、唐の皇帝より帰国を許可されることなく770年、73年の人生を唐土の地にて彼は終えることとなった。

最後に蛇足を一つ。上の文で私は仲麻呂の歌中の「月」を満月と断じた。故なきことではない。

まず、この歌は唐土を出立するに際し、海辺の町で催された宴にて詠まれたと考えて大過はない。とするならば、彼はどの方向に上る月を見てこの歌を歌ったのか。どう考えても故郷日本のある東の海上である。東の空にある月とすれば満月以外はないではないか・・・・彼は、海辺にて煌々と東の空に輝く月を見てあの日の月を思い出したのだ。36年前、御笠山の上に輝いていた月を・・・

上の写真の拝殿から、若宮を拝むとき、若宮そしてその背後の御笠山は東にある。その上に輝く月が満月であることは言うまでもない。(打ち消しの理由は「田原の里へ・・・春日大社」参照)