大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

法華寺に行く・・・上

冷たい雨が降り続く。

私は北へと向かう。この季節、いつもなら観光客で混雑気味の国道169号線も、心なしか閑散とし、気がつくと私の車は奈良公園にさしかかっていた。飛火野が見えてくる。広い草地の所々に立つ木々の葉はすっかりと赤く、その遙か向こうに春日山が雨に煙っていた。

やがて道は春日大社から続く、深い林の中を抜け、東大寺へと突き当たる。

私はここで左の曲がり二条通を走る。左手に奈良国立博物館が見えてくる。延々と続く長蛇の列が見える。この日が最終日の正倉院展をめあてにやってきた人々だ。この行列の長さでは中に入るまで2時間近くはかかるのではないかと思われる。いったんは今日の目的地をここに定めようとしていた私は、その目的地を法華寺に変えた判断に密かに心の中で喝采した。

近鉄奈良駅を過ぎたあたりでもう一度車を北に向け走らせること800mほど、再び車は西へと向かう。一条通だ。かつて大伴旅人、家持の親子が居住した邸宅があったという佐保の丘陵地帯を右手に見ながらまっすぐに進むと平城宮の手前で道は急に細くなる。

そこに法華寺はある。

法華滅罪之寺・・・この寺の正しい名称である。

篤く仏教に帰依し、施薬院悲田院のなどの施設を開設して今日の社会福祉事業の先駆的存在ともいえる光明子、こと、光明皇后の発願によって建立されたこの寺は、聖武天皇東大寺を総国分寺としたのに対して、皇后は女人のための総国分尼寺としてこの寺を始めたという。

この場所はもと藤原不比等の邸宅があったところで、720年、不比寺が歿したあと光明子がここを継ぎ、立后するやここを皇居宮とした。さらに745年、この旧皇居宮は光明皇后によって宮寺に改められた。これが法華寺の草創である。法華寺と号するようになったのはその2年後のことである。741年に聖武天皇により国分寺国分尼寺の建立の詔が発せられるが、その寺院の正式名称は国分寺金光明四天王護国之寺国分尼寺が法華滅罪之寺であった。そして、同じく平城京内に建立された東大寺がその総国分寺に位置付けられたように、この法華寺も総国分尼寺として平城宮東宮に隣接してその威容を誇った。南北3町、東西2町に及ぶ広大な寺域に、金堂と講堂。金堂の南には中門、さらにその南には東西両塔が配置された。くわえて境内の南西部には阿弥陀浄土院が作られ、丈六の阿弥陀三尊像が安置されていたという。他に東門・鐘楼・経蔵・食堂・僧坊・中島院・西堂等が完備されていたという。

しかしながら都が長岡京平安京に遷都されるに従い寺勢は次第に衰え、追い打ちをかけるかのように1180年、平重衡による南都焼き討ちの影響を受け、その衰退は決定的なものとなった。

その後、重源・叡尊といった僧侶の尽力により一定の復興を成し遂げた法華寺ではあったが、1499年・1506年の相次ぐ兵火により、かつての威容は完全に見るをあたわぬものになってしまった。現在我々が目にすることのできる法華寺は、桃山時代に入っての太閤秀吉の側室淀君による発願による再建事業によるものである。

・・・と、長々とこの滅罪之寺の来歴を語っているうちに、車はこの寺を囲む築地の東端にあるささやかな門の前にある駐車場に入った。車を降りるなりその小さな門から境内に入る。

私の目に入ってきたのは・・・蕭索たる空間であった。

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実にひそやかな・・・そして、そうではあっても何かしら温かみを感じさせるような優しい空気がそこには漂っていた。いよいよ、かの美形の観音様にお会いすることができる・・・