大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

天太玉命神社に行く・・・上

国道24号線は、奈良の市内地を抜けてまっすぐに南に延びる。近鉄大和八木駅のわきの高架を抜けてすぐに、一端、右に曲がり橿原市の市役所の前を過ぎてすぐに南に向かう。畝傍山が見えてくる。そのまままっすぐに進めば、橿原神宮の参道となるが、私はその手前の交差点で東へとハンドルを切る。最近できた河内へと抜ける自動車道に続く高架の下をくぐり、道はまっすぐに東へと進む。はるかかなたの正面に二上山が見える。

そこから5分も車を走らせないうちに道の右手に何やらいわくありげな木立が見えてくる。

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式内神社天太玉命神社と彫りつけた真新しい石塔が見える。その背後の鬱々とした木立からは浮いて見えるほど新しい。

さて、足を踏み入れてみよう。

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静かである・・・まことに静かである。境内を掃除しているおじさんが一人と、私と同じようにあちらこちらにカメラを向ける若者が一人(なかなかお若いのに感心である)。したがって聞こえてくるのは箒の音とシャッター音のみ。すぐ近くを走る24号線の車の音さえ聞こえてこない。

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拝殿である。手前に見えるのは狛犬さん。アップすれば、下記のごとくである

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なかなか立派な狛犬さんである。明治41年の文字がその台座には刻まれていた。

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本来ならば、拝殿の手前から両の手を合わせるところだが、今日この神社の拝殿の帳は開かれ、本殿の間近まで寄ることができた。いつもこの拝殿の帳がひらかれているのか、今日はたまたまだったのか、それは私に分かりようもない。

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ただ、こんなふうに祀られている神様の名を紹介する立札が本殿の手前にわざわざ立ててあるぐらいだから、この拝殿内に人が入ってくる機会は多いのだろうと思う。しかしながら、帳が開かれその中に入ることができたおかげで非常に貴重なものを見ることができた。誠に幸いであったと思う。

まず最初に本殿の手前

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もう一対の狛犬さんである。さすがにこれ以上近寄ることは気が引けたので、その年代までは確かめることができなかったが、さきほど拝殿の外で見た狛犬さんよりは古そうに見えた。まあ、こんな私の感想なのだからあてにはならないが・・・

そして何よりも驚いたのは、拝殿に中に立ち、その天井を見上げたときであった。まずはその左側

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そして右

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振り向けば

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どれもこれも立派なものばかりである。最後の高砂?だけは弘化3(1846)年9月吉日の日付と願主の大和屋庄兵衛の名がその額に刻まれていて、その年代を知ることができたが、他の絵はちょいとわからなかった。

弘化3年は明治帝の御父君孝明天皇の即位なさった年。大和屋庄兵衛といえば新選組芹沢鴨に襲撃されたあの生糸商かと思ってしまうが、上の額縁を見ると大阪とはっきり刻んである。芹沢鴨に襲われたのは京都の生糸商。時代はさして矛盾しないのだがどうやら別人のようだ。大阪で大和屋庄兵衛というの1700年代に活躍した堺の石工がいるが、これはどうも年代が違いすぎる。

さて、ここまでお読みになっておやっと首をかしげておられる方がいたら・・・その「おやっ」は正しい感覚である。私はここまで紹介した拝殿の奉納画は、順番にいうと本殿に向かって左、右、そして振り返って高砂・・・

・・・そう、正面をまだ紹介していない。常識的に言えば、こんなふうに絵画が飾られている場合、本殿に正対した、すなわち拝殿の正面側の所に最も重要な絵画が飾られているはずである。その重要な一枚をまだ紹介していない。

これはあくまでも故意にである。私は意図があって、あえてその正面に飾ってある絵画をまだ紹介していない。

さて・・・そこにはどのような意図があるのか・・・

しかしながら、その正面に飾られているはずの絵画に何が書かれているか・・・今日、私がここまで書いてきたことから、あるいは紹介してきた写真から推定ができないこともない。もし玉村の源さんがこの記事を読んでおられたらすぐにでも気が付かれることだろうとは思うが・・・そして、その絵画に描かれている場面こそが、次回の記事の中心となるネタになのだ。私があえてその絵画を隠したのはそのネタバレを防ぐためである。

最後の最後に一つだけヒントを・・・

この天太玉神社の所在地は橿原市忌部町である。