大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

天太玉命神社に行く・・・下

IMGP0513修正

これが・・・前回出し惜しみをした拝殿正面の絵だ。

中央の洞穴のような場所から顔を出し、こちらを向いている女神。そして、それに向かって群れ集う神々・・・ちょいと絵が傷んでおり、分かりにくかったが、きっとそうに違いない・・・そして中央の女神からは四方に向かって光彩のようなものが・・・

そう、「天の岩戸」である。

上の写真は、ご覧のとおり少々補正を加えた上、絵画の部分のみを切り抜いたもの。、実際は下の写真の様に飾られていた。

IMGP0513

分かりにくいが、この絵の向こうにあるのが本殿。それもあって、この絵だけがその下にしめ縄が張られてあり、なんとなくそのほかの絵とは違う位置付けにあることを感じさせられてしまう。

それもそのはずで、この「天の岩戸」のシーンが、この神の社の主、布刀玉(フトダマ)命、すなわち天太玉命が最も活躍するシーンなのである。

http://soramitu.net/zakki/?p=2201(参照してください)

素戔嗚の狼藉に恐れをなした天照大御神は天の岩戸に姿を隠してしまう(岩戸隠れ)。太陽神である天照大御神が姿を隠してしまえば必然的にこの世は真っ暗になってしまう。八百万の神々はすっかりと困り果て、天の安の河原に集まり、知恵の神である思兼(オモヒカネ)命にその対応を考えさせる。

常世(トコヨ)の長鳴鳥を集めて鳴かしめ、天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄(マガネ)を取りて、鍛人(カヌチ)天津麻羅(アマンツマラ)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売(イシコドリドメ)命に科(オホ)せて鏡を作らしめ、玉祖(タマノオアヤ)命に科せて、八尺(ヤサカ)の勾たまの五百津(イホツ)の御須麻流(ミスマル)の珠を作らしめて

という具合に祭祀に必要なものを、神々が分担して取りそろえる。その一連の中で、藤原氏(中臣氏)の祖、天児屋(アメノコヤネ)命が、布刀玉命を召して、天の香具山(まだこの頃香具山は高天原にあったという設定だ)の男鹿の肩の骨を抜き取って、同じく天の香具山の天の波波迦(ハハカ)・・・上溝桜・・・にて焼き上げ占い、思兼(オモヒカネ)命の策の可否を確かめた。結果として天宇受売(アメノウズメ)のストリップとなる。

そして、そして「岩戸開き」

このとき布刀玉命は「布刀御幣(フトミテグラ)と取り持ちて」天児屋命が布刀詔戸言(フトノリトゴト)を奏上をするのをサポートしている。「布刀御幣」は大きな立派な御幣という意味であろう。したがって「布刀詔戸言」は立派な祝詞ということになる。上の絵で画面の左端で笏を手にし、事の成り行きを見守っているかのように見える二人の神がこの二神なのだろう。

以上、古事記の記述に従って、天の岩戸における天児屋命、布刀玉命の二神の役割を追いかけてみたが、本来、祀られる対象の神でありながら、天照大御神を祀るという任務を帯びた姿がそこに見えてくる。おそらくは神話世界で最初の祭りを執り行った実行委員的な役割を果たしていたのだ。これこそこの二神が、祭祀の家筋、中臣氏・忌部氏の祖たる所以である。

ところで、ここで布刀玉命は天児屋命に召されて、占いを始めている。そして天児屋命か布刀詔戸言を奏上しているときには、その横で布刀御幣を持って突っ立ているだけである(ちょいと言葉が悪すぎるかな?)。どう見たって、天児屋命がメインで布刀玉命がサブだ。主導権は天児屋命であって、布刀玉命はその指導の下で動いている。

ところが・・・だ。次のような文章も残されている。

時に、天照大神は赫怒し、天の石窟の入り、磐戸を閇め幽居す。爾に国は常に闇となし、晝夜を分
かたず。群神は愁ひ迷ひて、手足は惜みなく罔し、几そ庶事を厥き、燭を燎して辨づる。高皇産靈神
は八十万神を天八湍の河原に會し、謝の方を奉らむことを議す。爰に思兼神は深思遠慮し議して曰く、宜しく太玉神(布刀玉命)に 令(ノリゴト)して、諸部神を率ひて和幣を造らせしめ、仍ち石凝姥神に令して天香山の銅を取ちて以つて、日像の鏡を鑄せしむる。長白羽神に令して、種麻を以つて青の和幣(ニギテて)と為す。令して天日鷲神と木綿津咋見神を以つての穀かぢの木の種を殖へ、之を以つて白の和幣を作らしむる。・・・

という感じで着々と祭りの準備は進み、いよいよ岩戸前のストリップである。

・・・太玉命に令して捧げ持ちて讚じ稱へせしむ。また、天兒屋命に令して相副へて祈り祷らせしめ、天鈿女命に令して以つて其の眞辞の葛を 鬘と爲し、蘿葛を以つて手襷を爲し、竹葉・飫憩の木の葉を以つて手草と爲し・・・

古語拾遺という書物の一節である。注目していただきたいのが、太字の部分。先に紹介した古事記とはだいぶ話が変わってきている。布刀玉命はここでは「思兼神」から直接指示を受け、「諸部神を率ひて和幣を造らせしめ」る神として描かれており、指導的な立場にある上として描かれている。例のストリップの場面でも、ただ布刀御幣を持って、突っ立っているだけの神ではない。思兼神の指示を直接受けて、天照大御神を「讚じ稱へ」る神であって、決して天兒屋命の添え物ではない。それどころかここでは、その天兒屋命が添え物として描かれている。

このストーリの変質の具合はいったい何に由来するのであろうか?

古語拾遺古事記の編纂(712)からほぼ百年遅れるところの807年の編纂である。その100年という歳月が、神話世界で最も重要なエピソードであったはずの「天の岩戸」のストーリーを変質させてしまったのだろうか?

答えは否である。古語拾遺の編纂者の名を知れば、誰もがすぐになるほどと思える単純な理由だ。

その名は斎部広成忌部氏は803年にその姓を斎部改めていた。)。

そう、古語拾遺斎部広成が、時の天皇平城天皇に自らのご先祖様の功績を訴え、己が一族の待遇改善を訴えた書であったのだ。古事記の編纂された、700年代初め、中臣出身の藤原不比等全盛の時代である。彼のような存在を出した中臣の一族は、古くからともに宮廷の祭祀一切を取り仕切ってきた忌部氏に大きくリードしていた。その祖たる神の序列はそういった時代の雰囲気を反映して古事記に記された。

以降も藤原氏の威光は衰えない。したがって中臣氏の威光も衰えない。忌部氏は凋落する一方である。一族の再興を願って、その姓の文字を忌部から斉部に改めた。けれども一族の威光はいっこうに浮上しようとしない。斎部広成は一族の沽券をかけて、史書を編む。もちろんそこには、祖先の輝かしい功績が示されているはずである・・・

果たして、広成の目論見は功を奏したのか・・・歴史的事実を見渡した時、その目論みは何の効果ももたらさなかった・・・としか見ることはできない。

ただ、この一族はそこで途絶えたわけではない。たとえば竹取物語に出てくる「三室戸斎部秋田」はおそらくこの一族の誰かがモデル。時代はぐっと下がるが、織田氏なんてのも忌部氏の流れを汲む。

そして・・・あの・・・田中角栄の懐刀、後藤田正晴はこの忌部氏の末裔なのであった。

最後の最後に、皆さんに貴重な資料の存在をお知らせしたい。今日、延々と述べてきた「天の岩戸」のシーンを・・・神代のその昔の出来事を見事におさめた動画を発見したのである。世の中にこんな貴重な動画は、ほかにありえない・・・ただ、まことに貴重な動画ゆえ、ほんの一瞬しか記録されていない。

ご覧になりたいお方・・・今のURLをクリックしていただきたい。

繰り返す。まことに貴重な映像ゆえ、「天の岩戸」に関する動画は以下の動画の冒頭のほんの一部でしかない。集中してご覧いただきたい。

https://www.youtube.com/watch?v=ujopreOSlSM