大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

思い出す味・・・「かく」?

前回に引き続き、食べ物にまつわる思い出を一つ。なにしろ30年以上も前の思い出でもあり記憶がすこぶる怪しいが、出来る限りの正確を期してみたいと思う。

水ようかんの吸い物・・・などと言ったら、きっと多くの方が「そんな気持ちの悪いものはこの世に存在するはずがない。」とおっしゃるに決まっている。私とて他所でそのようなものにお目にかかったことはないのだから、少々自らの記憶を疑っている。その食べ物は、確か・・・「かく」・・・と呼ばれていたように記憶している(ちょいと自信がない)。数年に一度行われる法事料理のおきまりのメニューとして、その機会にしか食することの出来ない代物だった。

私が5歳の年に死んだ祖父の3回忌、5回忌、7回忌。その他、曾祖父、曾祖母の13回忌とか21回忌とか、私の小学生から中学生にかけての時期に法事は頻繁にあった。感覚的には毎年のように法事をしているように思われた。遠くは熱海あたりまでの親戚が大勢、我が家に集まってきた。

これらの親戚を饗する献立の中にそれはあった。献立は毎回決まっており、法事の度に近所のお母さん方が大勢集まってきて、力を合わせてお膳を整えてくれた。もちろん、近所で同じように法事があれば、我が家の母もそこにお手伝いに行く・・・それが慣わしであった。

法事には40人ぐらいの人数が常に集まっていたが、明治初期には遊郭を営んでいたというしていたという我が生家の2階は、襖をぶち抜けば、それぐらいの人数は充分に饗応することが出来た。集まってくる客が多いときには、時間差で2度宴を開くこともあった。

そして、その宴が終わって、手伝いに来てくれたお母さん方と子供たちによる宴が始まる。献立は、本宴と全く同じものであった。但し、飲み物は本宴での清酒、ビールにお母さん方のための玉子酒が加わっていた。もちろん、私たち子供にはジュースが用意されていた。

さて、その献立について私の記憶を再現してみようと思う。お母さん方、子供のための宴であるのでご飯ははじめからお膳の上に乗っている。お赤飯であった。小豆ではなく「ささげ」と呼ばれる豆を使っていた。なんでも神様や仏様に「ささげ」るご飯なので小豆ではなく「ささげ」を使うのだそうである。

その右に、味噌汁。がんもどきがメインの具で、ナメコが浮いていた。薬味としてはいつも芹が散らしてあったと記憶している。

ご飯のすぐ上の小鉢には酢の物。これはそのときによって具が違っていたように思うが、我が家の法事は秋に行われることが多かったので、食用の菊が使われていることが多かった。

酢の物の左には御煮しめ。これは皆さんがご存じのものを想起してもらえばよい。高野豆腐(私の郷里では凍み豆腐と言った)にこんにゃく。大根に人参、そして昆布巻き・・・

そしてその奥にはカレイの煮付け。カレイは郷里で「ナメタ」と呼ばれている種類のものと決まっていたが、「ババカレイ」の名の方が広く知られていると思う。結構な高値の魚で、お正月や法事の時ぐらいしかお目にかかることの出来ない魚であった。

そして、それの同じ皿だったか別の皿だったか覚えていないのだが、ほうれん草のおひたし(細かくもんだ海苔がのせてあった)。その横には紅白の寒天が添えられてあった。上にはクルミをすりつぶした甘い餡がかけられてあり、缶詰のミカンが一つ、あるいは2つのっていた。デザート的なものであろう。

そして、その横、すなわちお膳の一番右奥にいつも置かれていたのが「かく」(くりかえすが、その呼称が正しいものか、自信がない)である。さっきのがんもどきの味噌汁が入った深々としたお椀とは違って、いかにも小料理屋でお吸い物が入っているような気取った蓋付きの浅めのお椀にそれは入っていた。入っている水ようかんの大きさは、お椀のほとんどの面積を占めるほどで、3角形に切られてあった(たぶんこれが「かく」と呼ばれるゆえん)。そして、葛でとろみをつけた出汁がひたひたに張られてあった。出汁の味は、おそらく昆布だしに醤油、そして、水ようかんの甘みがしみ出たものか、それともあらかじめそう味付けしてあったものか、やや甘めに味がついていた。その出汁の甘みが具である水ようかんの甘みを目立たないものにしていたように思う。そして、上にちょいと添えられた生姜のおろしが全体の味を引き締めて、男たちの酒の〆にはうってつけのものだったようである。けれども、子供であった私や、近所のお母さん方には甘味としての位置付けであった。甘味の乏しかったあの頃(どんな時代の生まれだ、私は?)、年に一度か、2年に一度しか食べられなかったこの面妖な食べ物は無上の美味の様に思えていた。

今、口にすれば、それを美味と感じるかどうかは自信がない。ひょっとしたら、こんなものをうまいと思って食べていたのか・・・そんなふうに幻滅を感じるのかもしれない。けれども・・・2011年3月11日、私の郷里が昏く冷たい波濤に押し流され、上に書いたような法事を催していた共同体は跡形もない。あの面妖な甘味は2度と口にすることはできない。そんなふうに思うと、無性に懐かしくてならぬのだ。生姜の風味の利いた昆布の風味につつまれたあの甘味をもう一度・・・もう一度でいい・・・口にしてみたいと思うのだ。