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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

奥松島の牡蠣・上

先週末、郷里の兄のもとから牡蠣が送られてきた。

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奥松島産の剥き牡蠣500g詰めが2本。しめて1kgである。どのようにして食べるべきか、迷いつつ今日の日まで冷蔵庫の中で眠ったままになっていた。生食することを考えれば、1日も早く食べてしまうのがベターではあるが、私の好みはいささかなりとも火の通したものであるゆえ、あわてて食べる必要はない。

鍋にしようか、葱と一緒にいためようか・・・それとも、酒でといた味噌を振りかけ、グリルでホイル焼きにしようか・・・あれこれ迷って結論が出ない。しかしながら、いくら加熱して食するといっても賞味期限が明日までに迫っている。今日か明日には夕餉の食卓にのせなければならぬ。今の私にとって、面白くもない衆議院選挙の結果を考察し、明日からいかに生きてゆくべきかを考えるより、こっちのほうが大問題となっている。

と、あれこれ迷った末、鍋で食べることにした。味噌仕立てではあるが、いわゆる土手鍋ではない。昆布で出汁をとり、味噌を溶かす。そこに少々の清酒(本当はたっぷり入れた方がおいしいのだろうが、ちょいともったいない)。煮えにくい野菜を入れ、ひと煮立ちするのを待つ。ここで一緒に豆腐を入れておかなければならない(もちろん木綿だよ)。

野菜に火が通りかけたら、牡蠣を入れる。当然のことながら火を通しすぎてはいけない。牡蠣の中央まで火が通ったか通らないかのところで鍋から取出し、口へと運ぶ。このとき、ささっと唐辛子を振るのも悪くない悪くない。とはいっても、少々火が通り過ぎても豊かな磯の風味が飛ばず、味も抜けないのが我が郷里の牡蠣の強みである。そればかりか、そのほうが牡蠣の持つうまみがしっかり味わえるようにすら思う時がある。私があえて生の牡蠣を避ける所以である。スーパーで買う牡蠣ではこうは行かぬ。

大量にあると思えた牡蠣はあっという間になくなってしまう。最後は残った汁にご飯を入れる。あまり煮詰めないうちに溶き卵をはって海苔をもみ入れる・・・後は手元の鉢に移し入れふうふう言いながら掻き込むだけである。

・・・が・・・

実を言えば私がまだ郷里に暮らしていた頃、牡蠣はそれほど好物といえる食物ではなかった。特に生食は、一切受け付けることができなかった。せいぜい濃い目に味噌で味をつけた鍋か、フライにされたそれを二つ、三つを口にすれば良いほうであった。けれども、我が家では、牡蠣は生で食べることが主流であった。私の郷里、奥松島は隣接する松島町とならんで、宮城県内でも有数の牡蠣の産地であり、牡蠣は近所の漁師の知り合いからもらうか、直接、浜値で大量に購入するものであり、少なくとも魚屋で買うものではなかった。したがって、1度に仕入れるのはキロ単位。おそらく、ちまちまと調理することが面倒であったのだろう。母はその大量の牡蠣を大根おろしで洗い、大きな鉢に盛り付けた(というよりぶち込んだ)。それに、酢と醤油を振りかけ料理は完了である。

そして、その鉢は食卓の中央に置かれることはなく、まず父の前におかれた。父はおもむろにその鉢を口元まで運んで、箸を以って、何個とも知れぬ牡蠣をかき込む。そしてその鉢を隣にまわす。隣のものは父と同じことを繰り返し、また隣にまわす。食卓を3度まわるぐらいには鉢のそこが見えていた。私の郷里で牡蠣は箸でつまんで食するものではない。どんぶり鉢からかき込む物であった。

牡蠣が好きではなかった(ことに生の・・・)私の前を牡蠣は素通りしてゆく。私には信じられない光景であった。

そんな私も、大学の関係で関西に暮らすようになり、そして働き始める。少々の(?)酒をたしなみようになり、いつしか牡蠣を好物とするようになっていた。

仕事帰りの道、同僚と・・・あるいは一人で暖簾をくぐることが日々の楽しみとなってくる。最初はは自ら牡蠣を注文するようなことはなかったが、その季節となると同僚は酢牡蠣を注文し私にも食べろと勧める。あるいはお通しと称して席に着くなり、勝手に生のままの牡蠣が私の前に運ばれる。渋々手をつける。そんなことが何度繰り返されただろうか。牡蠣は私の酒の友として冬には無くてはならないものになっていった。酒が私の嗜好を変えたのだろう。幼い頃、決して口にすることの無かったものも私は食べられるように食べられるようになっていた。

そうなると、生だけではなく他の牡蠣料理にも私は手を出すようになる。

あるいは自らスーパーなどで牡蠣を購入しては、あれこれと手を加えて食する楽しみも覚えていった。先に述べたような調理法は、その中でもっとも私の嗜好にかなうものである。そんな私の牡蠣の趣向に決定的な転機(かなり大げさではあるが)が訪れたのは、妻と出会い家庭を構えるようになってからであった。

郷里に残る身内とのつきあいは、独身であった頃のそれとは確実に異なったものとなった。家と家との付き合いになったのである。となると盆暮れのやりとりが生じることは自明である。幾人かの親戚が暮れの贈り物に牡蠣を選んで送ってくれたのだ。

郷里に暮らしていた頃の私は牡蠣が嫌いであったのだから、その味を知るよしもなかった。だから、それまでの私の知る牡蠣の味は関西の居酒屋で饗される、あるいはスーパーに並んでいるそれの味がスタンダードであった。そんな私は郷里から送られた牡蠣を口にして・・・俺はなぜこんなうまいものを嫌っていたのだろう・・・と、牡蠣が嫌いであったこと、そしてお愛想程度にしか郷里の牡蠣を口にしていなかったことを、非常にもったいないことをしたと後悔した。その頃 の私の知っていた牡蠣の味の標準を遙かに凌駕する美味がそこにはあったのだ。

その頃、牡蠣は年末に2,3軒の親戚から送られていた。おおかた2,3kgの剥き身の牡蠣が、年末のひとときに我が家で消費されるようになった。そうなると、困ったのが年明けである。牡蠣のシーズンはあと2ヶ月ほど続く。けれども、年末に松島湾で育った滋養の固まりの味を覚えた舌は、近所のスーパーに並ぶふやけた味のそれを求めなくなってしまうのである。

とはいっても、年末にそんな結構なものをいただいた郷里の親戚に再びおねだりすることも出来ない。けれども、季節が許す限りはまだまだ牡蠣を食べていたい。そんな私が思いついたのは通販を利用することであった・・・<続く>

※文中に奥松島という言葉が数度使われている。聞き慣れない方のためにあえてご説明使用と思う。 松島はご存じのように宮城県を代表する名勝で、日本三景の一つとして広く知られている。宮城県宮城郡松島町の海岸線を中心とした内海である。奥松島とはその奥(あくまでも東京、あるいは仙台を機転とした方向感覚)に位置する、松島湾を形成する出っ張り(宮戸島)の外湾部を中心とした海岸線を言う。正確な地名で言うと宮城県桃生郡鳴瀬町野蒜から宮戸島の太平洋側の海岸線を指す言葉である。私はこの地にて18になるその年まで暮らしていた。のどかな半農半漁の町であった。そして、この町は2011年3月11日、消滅した。 ただ、町は消滅しても海が無くなるわけではない。人々はあれだけの仕打ちを見せた海を、今も頼りにして暮らしている。そして、その見事な牡蠣は被災のその年の秋にはすでに復活していた・・・ http://www.umakaki.com/
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