大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

はじめてのビーフステーキ

郷里にいたころ、私の住む町には肉屋がなかった。それどころか八百屋も魚屋もない。近所にあったのはよろずやさんが2軒と酒屋と豆腐や。したがって、日々の食事に必要な生鮮食品は、毎日昼ごろ軽トラでやってくる行商の魚屋さんと、2日に一度やってくる2トントラックの八百屋さん。そうそう、いつやってくるかわからない在日コリアンの魚屋さんの自転車なんてのもあったな。

八百屋さんは確か昼下がりの時刻、スピーカーで水戸黄門の歌(南春夫の歌うもので「人生楽ありゃ苦もあるさ・・・」ってやつじゃあなくって、「助さん角さんついてきなあ~」ってやつ)を大音量で流しながらやって来た。軽トラの魚屋さんは路上に車を止めて、周辺の家々の玄関で「来たど~」と大声で叫んでいた。自転車の魚屋のおじさんはいつの間にか上がり框に座り込んでいたっけ・・・

てなことで、毎日の食卓に肉なるものが上がってくることは滅多にない。カレーだってすき焼きだって、その軽トラに魚屋さんが持ってくるクジラの肉が普通だった。稀にその軽トラに豚肉が積んでることがあって、そんなときには間違いなくカレーが晩御飯の献立になった(年に数度だけどね)。

小学校も高学年になった頃、やっとのことで近所に肉屋さんができ、もうちょっとたって家から2㎞ほど離れた場所にも肉屋さんができたが、そうなると食卓に肉が出ることも多くなった。

けれども、それらに肉屋さんに置いてあるのは豚肉のみで、牛や鶏はなかった(まあ、鶏は買って食べるものというよりは家に飼っているものをつぶして食べるものであった)。

そんな食環境にあったものだから、その頃の私はビーフステーキなるものを一度でいいから食べてみたいと思っていたものだ。住んでいる町には牛肉が売っていなくとも、テレビを見ればドラマやらなんやらでビーフステーキという言葉は飛び交っている。しかも飛び切りの御馳走としてドラマなんかでは扱われていたので、私の憧れは日に日に積もる一方だった。

そんな私にとうとうビーフステーキを食べる機会がやって来た。生まれて初めてのフォークとナイフを使っての食事であった。確か小学校もかなり上の学年になった夏休みのことであっただろうか・・・その頃私は夏休みになると毎年のように奈良の大和高田という町に住む叔母の家に遊びに来ていた。

7月の後半からお盆の頃までの長滞在を毎年のように繰り返していた。いよいよ明日は宮城に帰るという日であっただろうか。父も母も一緒の滞在であったのだが、父は今日で奈良も最後だし、なんでも好きなものを食べさせてやると言ってくれた。私はその言葉にすがって、恐る恐る「ビフテキ」と行って見た。ほとんど期待などせずに物は試しと発した言葉であったが、父の機嫌が良かったのであろうか、父は分かったと言って近所のレストランにビーフステーキの仕出しをたのんでくれた。

ほどなくレストランの車がやって来た。よくあるような鉄板の皿の上に分厚い牛肉の塊がのっていた。出前とはいえ、まだ温かそうに湯気が立っていた。つけあわせは・・・これも、よくある人参とインゲン豆のグラッセ。それに皮付きのままのじゃが芋。別盛りで皿にご飯が添えられていた(ご飯を皿で食べるなんて言うのもこれが初めての体験)。夢のような光景がその日の夕餉にはあった。これまた恐る恐る父に聴いたその代金、一人前3000円。その頃の物価からしてはかなり高価なものであったと思う。その頃確か駅の立ち食いのかけ蕎麦が70円ぐらい。我が父もかなり気合を入れたようだ・・・

さて・・・いよいよ私はフォークとナイフをその両の手に持った。右にフォークかナイフか、左手にフォークかナイフか・・・それすらおぼつかない。母は仕方なしに分厚い肉の塊をすべて食べやすい大きさに切り分けてくれた。右手に持ったフォークに突き刺したその分厚い肉の塊の一切れを私は頬張った。

失望した・・・

牛乳臭い・・・それが私が初めて牛肉(サーロインだよ)を口にしたときの印象だった。それまで鯨や豚しか口に入れたことのなかった私には牛肉の持つ今ならば好ましく思えるその風味が、きわめて食欲を減退させる臭気としか感じられなかった。けれども、せっかく父が奮発してとってくれたビーフステーキだ。私は我慢してそのすべてをたいらげた。そして「とってもうまかった・・・」と父に嘘をついた。

これが私と牛肉の初めての出会いだった。今は肉といえば牛が当たり前の関西に住み、そう度々ではないにしろその牛肉を食するようになり、それを美味と感じる私ではあるが、初めての出会いはそう好ましいものではなかった・・・