大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

「エジプトダンス」のことなど

私の卒業した鳴瀬町立(現東松島市立)鳴瀬第二中学校は一昨年の3月のあの日、いつもならその学舎を優しく見守っている太平洋の、予期せぬ昏く冷たいせり上がりによってことごとく破壊された。

もはや学校として機能しないこの学舎に、その後二度と子供たちの声が響くことはない。この学校の生徒たちは鳴瀬川を挟み、5kmも上流に遡った鳴瀬第一中学校に間借りして、この二年間、鳴瀬第二中学校の生徒として授業を続けた。しかしながら、そのような不安定な形に子供たちをいつまでもおいてゆくわけにはいかない。

そこで東松島市の出した結論は・・・この二つの中学校の合併であった。費用の面もあったのだろうが、それよりも大きな理由は、この破壊の限りを尽くされた中学校の位置していた場所が、復校のための新たな都市計画のため、誰も住まなくなる地域の中央に位置しており、仮に作り直したとて、多くの子供たちにとって通学しづらい状況が生じてくるという事実であるらしい。

ともあれ、この4月、2つの中学校は1つとなり、新たな校名にてスタートする。そこに学ぶ我が「後輩」たちの健やかな学びを願ってやまない。

ただ一つ気になることがある。

我が鳴瀬第二中学校では体育祭において、男女の子供たちがそれぞれ全員で遊戯を披露するのがならいであった。女子のそれは「美しき天然」(今は別のものになっているらしいが、当時においてもかなり古式ゆかしいものであったことは否めない)。男子のそれは・・・

「エジプトダンス」と呼ばれるこの中学校伝統の遊戯であった。

その由来は定かではなく、人によっては90年近く前からのものだとか、昭和の初期からのものだとかいう。しかしながら、戦前にはこの中学校は存在していない(大体にして学制自体が違う)。仮にその前身たる野蒜小学校においてそのはじまりがあったとするにしても、昭和10年代にこの小学校に在籍していた我が父は「そんなのは知らん。」といっているぐらいであるから、その始原を戦前に求めることはできないだろう。

ただ、戦中に生まれた私の叔父(したがって中学校は新制)が確かに踊ったと言っているから、少なくとも戦後間もない頃にはじまったとみて差し支えないであろう。以下の動画は、最近のその練習風景である。ほんの一部ではあるがユーチューブでは唯一の極めて貴重な映像である。

動画では、体育館内で練習しているが、私たちが在学していた頃は、屋外で練習することが普通であった(体育館では女子が件の「美しき天然」の練習をしていた)。体育祭が近づいてくると、その日の授業の2校時二層等する時間がこの練習に当てられたのだが、その練習に教師はノータッチであった。その生徒たちの居住する地区ごとにグループが作られ、その伝統はそのグループごとに先輩から後輩へと伝えられた。

一定期間が過ぎて、1年生がこの伝統を習得する時期になると、全体での練習が始まる。

ここからがまた大変であった。

はじめ、その地区のグループごとに集団を作って校庭の隅の方に控えているのであるが、前奏が始まると共に全員が「ワー」と大声で叫びながら(中にはどさくさに紛れて好きな女の子の名前や教師の悪口を叫ぶものもいた)、一斉に中央へと躍り出る。もちろん全力疾走だ。ここで手を抜いていることが先輩たちに見つかれば、また一からのやり直しである。振り付けに間違いがあれば、その間違ったままの格好で全員の周りを1周させられる。それまでは優しく教えてくれていた地区の先輩方も、1年生が間違えればそれは教えた先輩方の恥にもなるので、手厳しく指導するようになる。

そんな数時間が、二学期が始まってから体育祭までの数日間続いていた・・・

本番当日の格好は・・・短パンの上から上の動画のように腰蓑を着ける。何せ田舎のことだからわら細工の得意なじいさんたちはいくらでもいる。自前で調達できた。頭には(これが動画とはちょいと違う)風呂敷を巻き、その隙間に孔雀の羽(釣具屋で手に入る)か、金鶏の羽(家で飼っているところが多かった)を突き刺す。さらには絵の具にて、顔やら上半身に好き放題のペインティングを施す・・・といったものであった。どう見ても古代エジプトを誤解しているとしかいいえない珍妙な出で立ちである。

加えてこの遊戯は随所に滑稽というよりは、恥ずかしくてたまらないような珍妙な動作が含まれている。

恥ずかしくも苦しく、それでいて楽しい数日間であった。理不尽といえば理不尽な毎日ではあったが、人生における一定の期間、かような時期を過ごすことは決して悪いものではないと私は信じている。

そのように思ったこの中学校の卒業生は、決して少数ではなかったのだろう。この伝統は一時期途絶えてしまったことがあるらしいが、数多くの卒業生の声により復活したのだと聞く。

ところが・・・3.11の波濤はこの学舎を貫いた。

この学び舎の1階に放送室はあるのだが、中学校の時、放送委員会に所属していた私はその放送室にこのエジプトダンスの音源があることを知っていた。マスターになるレコードは暑く思いエボナイト製。もちろん33回転や45回転ではない。冬至学校にあるレコードプレーヤーではそれを再生することはできなかった。かわりにオープンリールに録音されたかなり古い音源が体育祭には用いられた。

無論それからその音源は別な媒体への移し替えも行われたであろうが、そんな音源が保管されている場所は放送室だ。

これで・・・長いエジプトダンスの歴史も途絶えたのか・・・私はそう思い込んでいた。

ところが・・・昨年10月に虚構された野蒜復興祭において、我らが伝統は見事に受け継がれていた。上から9段目か10段目の右側の写真がそれである。

・・・が、せっかく受け継がれたこのエジプトダンス、鳴瀬第一中学校と第二中学校の合併の後、どのように取り扱われるのか・・・きわめてその存続は可能性が低いとしか考えられない。どう考えても、あの恥ずかしさに、これまでの伝統を負っていない第一中学校の生徒に耐えきれるとは思えないからである。

二つの学校がそれぞれの伝統を持ち寄って、さらには互いにそれを受け入れる。それこそが対等な合併だと言えるのであろうが、どうしても受け入れがたい他者の伝統をどう扱うべきか・・・当方としてそれを無理強いすることも対等な合併とは言えない。両者の合意によってのみ、互いの伝統は受け継がれる・・・

今は残されたかすかな可能性を信じるのみである。