大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

二上山残影

私がいつもの展望台にたどり着いたとき日はまだ稜線からかなり高い部分に輝いていた。

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この展望台に上るためにはかなり急な坂道を上り詰めなければならない。急がなければ日は二上山の山影にその姿を隠してしまう。日ごろ滅多に運動などしない私は、息を切らしながらもその頂に急いだ。頂にたどり着き、眺望が私の前に開けた時に私は情けないことながら肩で息をしている有様であった。とにかくシャッターを切って上の一枚を撮ったものの、呼吸が落ち着く前のしばらくの間カメラを構えることもままならず、ただただ沈みゆく落暉を見入るだけであった。

そして呼吸も落ち着いて、さてカメラでも構えようかと思った頃、日はまさに二上山の御岳と雌岳のその間に近づきつつあった。

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そして待つこと暫し・・・

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巨大な日輪は二つの頂の間に姿を隠して行った。

二上山奈良県大阪府に跨って聳える山で、葛城金剛から延びる山並みの北のはずれに位置する。今はそのまま音読して「にじょうざん」と呼ぶことが多いが、かつては「ふたかみやま」と呼ばれていた。大学時分万葉集を学んだ私はついつい「ふたかみやま」と言ってしまうことが多い。北方の雄岳(517m)、南方の雌岳(474m)の2つの山頂をもつ双耳峰である。

大和の盆地の西方に位置し、春と秋の彼岸時分には写真の様に雄岳、雌岳の中間に日が沈むことから、古来から聖なる山として大和人に意識されてきていた。そのこともあってか、この山の麓には弥勒仏のいます当麻寺が多くの人々の信仰をあつめている。また、悲劇の皇子として知られる大津皇子の葬られた場所としても有名である。

うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟世いろせ)とわが見む(巻二・165)

とはその姉大伯(オオク)皇女がその死後に皇子が葬られたこの山を見つつ詠んだ歌である。以前は御岳の山頂にある塚がその墓であるとする考えが一般的であったが、最近では、奈良県側の麓にある鳥谷口古墳が実際の墓であるとする説もある。(大津皇子と大伯皇女

また、この山は例の太陽の道とかかわる山としても有名である。太陽の道とは北緯34度32分の緯線をいうが、このライン上には太陽神天照大御神に関わる遺跡が並ぶ。伊勢斎宮遺跡、天神山(与喜山)、桧原神社、箸墓がそうだ。伊勢斎宮については言うまでもないだろう。天神山については先日述べた。箸墓はかの邪馬台国の女王卑弥呼の墓と考える説がある。卑弥呼とは日の御子、太陽神との関わりは深い。そしてそのうちの檜原神社からの夕景が、二上山を太陽の道とのかかわりを持たせる。今日3月16日は春分の日から4日前なので、檜原神社からかなり南に位置するこの展望台から二つの頂の間に沈む夕日が見られたが、古代人にとって暦の運行の中で最も大切であったであろう春分秋分の日には

檜原神社鳥居

檜原神社のこの鳥居から、二つの頂の間に沈む夕日が拝める。

本来ならば、前回の記事の旅のレポートの続きを今日の記事としようと思っていたのだが、急きょこの記事を挿入したのは春分近いこの日ゆえのことである。

去年の春分の日の事であった。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向って居た。日は、此屋敷からは、稍やや坤ひつじさるによった遠い山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄にわかに転くるめき出した。その速さ。雲は炎になった。日は黄金おうごんの丸まるがせになって、その音も聞えるか、と思うほど鋭く廻った。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、じっと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽はれた。夕闇の上に、目を疑うほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありありと荘厳しょうごんな人の俤おもかげが、瞬間顕あらわれて消えた。後あとは、真暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝まさって行くばかりである。(折口信夫「死者の書」
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