大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

おほきみの 遠の朝廷

またまた東大寺方面へと足を運んだ。 目的は・・・・ちょいと後回しにして、この季節東大寺周辺(というか奈良公園)を飾っているのは

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あせびである。万葉人のいうところのあしび・・・馬酔木は、

本植物の葉を煎出したる汁は殺蟲剤として甚だ有効なり。これ葉に劇毒を有するによる馬若し誤つてこの葉を食すれば昏醉すと云ふ之れ馬醉木の名ある謂以なり(村越三千男「大植物図鑑)

とあるように、その可憐な花とはうらはらにその、葉、樹皮、茎、花にアセボトキシン、アセボプルプリン、アセボインなどの有毒成分を隠し持っている。したがって草食動物の多い地域(奈良公園なんかはその好例)では、この木が目立って多くなることがある。ということで、最初に述べたような状況を呈している。逆にいえばあせびが不自然なほど多いという状況は、その地域において食害をもたらすような草食獣が多いことを示す。

そんなあせびの咲き誇る公園を抜けて私が目指していたのは東大寺総合文化センター付属東大寺ミュージアムである。ただし、今日の私の目的はそこに安置される展示品ではない。ミュージアムの入場口には背を向けて、その反対側にあるミュージアムショップへとまっしぐら・・・である。今日の来館の目的は

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こいつを購入することにあった。

東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県多賀城市の復興を支援しようと、同市で慰霊法要を営んだ東大寺奈良市内の酒造会社3社などが多賀城市の米(ひとめぼれ)を原料とする清酒を製造した。3月1日から販売される。東大寺が昨年8月に多賀城市で慰霊法要を営んだ際、市内に蔵元がないと聞いた北河原公敬別当が提案。同市と友好都市提携している奈良市が協力して「復興支援酒」が実現した。・・・ 「遠の朝廷(とおのみかど)」と名付けられ、北河原別当がラベルの字を揮毫(きごう)した。いずれも純米酒で、華やかな香りと米のうまみが魅力という。1本(720ミリリットル)1575円で販売し、売り上げの10%が多賀城市に寄付される。(2012・2・29 奈良新聞

昨年の記事で恐れ入るが、こいつが今年も販売され始めたとの情報を耳にしたからである。

宮城県多賀城市産の米で奈良市の蔵元が醸造した純米酒「遠の朝廷」(奈良市で)奈良市東大寺などは25日、東日本大震災被災地・宮城県多賀城市の復興を支援するため、同市産の米で奈良市の蔵元が醸造した純米酒を3月1日から発売すると発表した。昨年に続いて2回目で、売り上げの3%を義援金として多賀城に送る。・・・昨年は義援金約66万円を送っており、同寺の北河原公敬別当は「両市の絆が酒造りを通じて一層強まればうれしい」と話した。(2013・2・2 読売新聞

昨年はまごまごしているうちに時期が過ぎて買いそびれていたのだが、今年はぜひとも我が故郷の復興の一助をと考えていた(笑)ので、お水取りが終わった大和の陽気に誘われて東大寺まで足を運んだのだ。この酒の醸造は市内の三つの酒蔵がかかわっており、多賀城産(ひとめぼれ)を原料として、この三つの酒蔵がそれぞれ同名の純米酒を造るという取り組みだ。酒蔵の名は今西酒造、八木酒造、そして豊澤酒造の三社。私が購入したのは八木酒造醸造のもの。この酒蔵の醸造するところの「升平」はどちらかといえば東北の酒を愛好する私が、珍しく大和に産する酒では愛飲するところの酒である。

さてこの酒の名として選ばれた「遠の朝廷」という語は、

都から遠く離れた地方の政庁、あるいは遠方の政庁に派遣される官人。特に大宰府を指して使用されるほか、国府や新羅の日本の政庁も指す。田村圓澄は「(政庁を指すのではなく)律令体制下の日本全土が、『朝廷』であり、そして遠方の地域が『遠の朝廷』であった。」と考える。中西進は「遠の朝廷」を人麻呂の造語とする。・・・万葉集には8例の「トホノミカド」が見えるが、すべて「大君の」、「天皇(すめろき)の」、「食(を)す国の」何れかを冠し、天皇の遠方の政庁、天皇の治める国の遠くへ派遣された官人という表現となっている。中でも(3-304)は遠の朝廷に通う瀬戸内海の諸海峡を見ると「神代」が偲ばれると歌い、国生み神話と重ねて天皇の統治を寿ぐ表現となっている。(国学院大学デジタルミュージアム

と説明され、主に大宰府をさすことの多いように思える言葉ではあるが、その原義からすれば東北征服の最前線であった多賀城もこの言葉を関するにふさわしい施設であることは疑いない。

そして・・・多賀城といえば・・・我が大伴家持の最終の任地でもある。説によっては、その職は受けた実際に赴任はしなかったと考える向きもあるが、私は個人的希望も含めて実際に赴任していたと考えたい。万葉集の編纂姿勢などから感じる彼の生真面目さは、自らの職を他者に委ねて安穏としていられるような人物には思えないからである(もちろんこれは感情的な根拠ではある)。そして彼はその地にて果てた。延暦4年(785)旧暦8月28日のことであった。

従三位中納言、兼陸奥按察使持節征東将軍が彼の最終職位であった。父、祖父大納言贈従二位安麻呂、父大納言従二位旅人には及ばぬ従三位中納言ながら兼職した陸奥按察使持節征東将軍は、古来、部門をもって皇室に仕えて来た伝統豪族の宗主の彼にとってその自負にかなうだけの任であったかと思う。・・・が、齢を過ぎて、都から離れなければならない負担は彼にとって思うところがあっただろうことは否めないであろう。

父旅人はよく酒を嗜む人物であった。彼もまた多くの宴席歌を残す。決して下戸ではなかったであろう。都から遠く離れた陸奥の地・・・歌人大伴家持が飲む酒はいかなる味がしたであろうか・・・・

・・・なんてことを考えながらこの酒を飲むことにしようと思う。