大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道1日旅行3

石上神宮から内山永久寺跡までは10分ほど。内山永久寺は永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願によって建立された真言宗の寺院で、境内の3方を山に囲まれていたことから内山と呼ばれていた。建立の当初から興福寺大乗院の手厚い保護を受け、その寺勢には並々ならぬものがあった。最盛期には浄土式回遊庭園を中心に、50あまりの堂塔が立ち並び、江戸時代には971石の寺領を誇っていたという。大和国内にあっては、東大寺興福寺法隆寺に次ぐ待遇をうける大寺であって、その伽藍の規模と壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも称されていた。(往時のこの寺の様子は前回の記事の最後の写真を参照していただきたい)

・・・が、今は・・・

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その中心にあったと思われる浄土式回遊庭園の跡と思われる池とその中に浮かぶ小島が残されているだけである。

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池の近くにある展望台に登って周囲を見回してみても、何も・・・何も見えはしない。

全ては明治初めの廃仏毀釈の影響である。すべては破壊され、略奪され・・・「西の日光」はこの国から消滅した。

廃仏毀釈は、江戸時代に寺院が持っていたさまざまな特権や、寺請制度によって江戸幕府が行った民衆管理などに対する民衆の反発であったとも、神道を国家宗教に据えようとする明治政府の意図に従って、一部の国学者神職にある者たちによって主導された神道復権運動であったとも言われている。

どちらの要因も否定するべきものではないと考えるが、基本的には明治政府がそれまでの神仏習合から、仏教的な要素を徹底的に取り除こうとする思想純化のための神仏分離令に端を発する運動が廃仏毀釈であった。そしてそこには激しい破壊と略奪が伴ったことは周知の事実である。なんでも、興福寺五重塔などは薪として金25円也で売りに出されかけていたのだという・・・・・・こんな事がわが国でもあったのである。この国の民衆も行っていたのである。一度タガが外れれば・・・我々はくれぐれも自省しなければならない。

内山永久寺跡を後にして程なく、やや急な登りとなる。本日のコース最大の難関であるが、そう大した坂でもない。さて、雨は少々と降り続く。そろそろ昼食に時間に近づいてきたのだが、この雨降りの中弁当箱の包みを開くわけにはいかない・・・道はその登りの頂点に達し下り始める。その下り始めた道がまだ大和盆地を見下ろすような高台にあるうちに、雨をしのぎながら食事をするにはおあつらえの木造(ややウエスタン調の)の建物が・・・

天理観光農園である。基本的にはレストランとしても営業する施設ではあるから、店側としてはそこで食事をとってもらいたいというのが本音ではあろうが、何せ我々一行は弁当持ちの身、レストランでの食事はそのお弁当を無駄にさせてしまう。そこで、お店の方はご好意で店先の軒やら、この日は使われていなかった二階への通路を開放してくださった。

食事を含めた休憩時間30分。我々はこれから歩くべき道に対する鋭気を充分に養った。歩きはじめることにしよう・・・

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