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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

山辺の道1日旅行4

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天理観光農園で昼食をすませた私たちは。再び雨中の行軍を始める。その最初の訪問地は夜都岐神社。夜都岐の字は「ヤツギ」ともいい、また「ヤトギ」ともいい、定かではない。祭神は、武甕槌命姫大神経津主命天児屋根命で、以前訪れた春日大社と同一である。それもそのはずで、この神社の位置する乙木(オトギ)の地ははかつて興福寺大乗院及び春日大社の領地で、その縁もあって春日の神をこの地に勧請したことがこの社の由緒であるからである。そのため、春日大社から古くなった社殿や鳥居を60年ごとに譲り受けるという伝統があったというが、下の写真の本殿は、明治39年改築したもので春日造りで、彩色の華麗な同形の4社殿が並列している。

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塀に囲まれたこの本殿はご覧のように、その一部しか拝見できなかったが、見えている部分だけでもその豪華さはうかがい知ることができる。

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狛犬さんはご覧のようにかなり古びてはいるが、それほど古いものとは思われない(もちろん、これは私の私見であって、正確なことはHOSINAさんに聞いてみなければわからない)。けれども、その古び加減は、その後ろにひかえる、この辺りでは珍しい茅葺の拝殿と相まって、古色豊かな雰囲気を醸し出している。

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更に山辺の道を南下する。左手に巨大な前方後円墳の前方部が視野に入ってくる。写真は更に足を進め後方部に回り込んでからのものであるが、これが西殿塚古墳である。南北に主軸が貫かれており、その全長は234m、後円部の直径135m、前方部の幅118mの、この辺りでは最大の規模を誇る古墳である。延喜式に記される、山辺郡にあったとされる手白香(タシラカ)皇女衾田(フスマダ)陵とほぼ同じ位置にあたるため、宮内庁によって手白香皇女衾田陵に治定されている。

手白香皇女仁賢天皇の皇女。その弟の武烈天皇が子をなさずして崩御したため皇統が絶えてしまった(4代前の雄略天皇が、自らの地位を脅かす恐れのある皇子たちをことごとく粛清していた)ことから、応神天皇の5代目の孫であるという越前の男大迹(オホド)王が皇位に着いた。そして手白香皇女がその皇后となったのである。

ここに万世一系の皇統に疑義をはさむ余地が一つある。まず、応神天皇5代の孫というのがそもそも疑わしい。しかも、応神天皇自体が学者によってはその存在の疑われる天皇であって、その存在の疑われるような天皇の5代の孫であるという事実をそのまま信じることは難しい。加えて、この天皇は大和において即位することができす、河内にて即位している。やっと大和に入ったのが即位の20年後であったという記録は、男大迹王を正当な皇位継承者として認めなかった勢力が大和の地に多くいたことを示す。

だいたい・・・「継」体をいう諡号を後に送られたこと自体、前の王朝との血脈的なつながりを持たなかったことの証になることを示しているのではないかとも考えられよう。だからこそ、その皇位の正当性を高めるために前天皇の皇女、手白香をその皇后としたのではないか・・・

ところで・・・その皇統史を語るうえで非常に重要な位置を占める皇女の陵墓ともくされる西殿塚古墳であるが、実はこの古墳をその陵墓とすることに疑いがもたれている。手白香皇女は5世紀後半から6世紀にかけての人物であるが、最近の調査によりこの古墳の築造年代が3世紀から4世紀であることが明らかになったからだ。そこで最近はこの皇女の墓はその近くにある西山塚古墳ではないかとする考えが一般的になりつつある。

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この西山塚古墳から出土された埴輪が、その夫継体天皇の真陵と言われる今城塚古墳と同じく、高槻のの新池遺跡で焼かれていることもその考えを補強する。

興味は尽きない・・・そんな古墳たちがこの道筋にはいくつもある・・・

さて・・・予報では昼過ぎからあがるはずであった雨は、いっこうにやむ気配はない。それどころか雨脚は一層強まって行く。けれども、私たち一行は山辺の道の南下をやめない。

巨大な石碑が見えてきた。万葉歌の歌碑である。

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衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑徃者 生跡毛無 衾道(フスマヂ)を引手(ヒクテ)の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし

とそこには刻まれている。柿本人麻呂の「妻死之後泣血哀慟作歌」の第2長歌反歌である。「(衾道を)引手の山にあの娘を置き去りにして(葬って)、山道を歩いていると生きた心地もしない・・・」ほどの意であろうか・・

文字は、万葉故地が乱開発される現状を抗議し、国会議員やなどの財界人に万葉故地の重要性をうったえ、その景観の保全を守ることに一生をささげ、万葉集を一般の方々に広めた犬養孝氏のもの。一行は氏が生前良くなされていた「犬養節」と呼ばれる万葉集の朗誦にならい、全員で声をあげ、この万葉の悲歌を口ずさんだ。

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