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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

梅雨の宵

昨日のことだが、私は早めに夕食を済ませ、車を奈良に向かって走らせた。6時はまわっていただろうか。夏至に近いためまだ周囲は明るいとはいえ、夕日はその赤みを増し、田植えが済んだばかりの水面に美しく輝いていた。

それだけで充分に美しい・・・けれども私はさらなる美しさを求め、奈良へと向かっていたのだ。

車を走らせること1時間、私は東大寺にほど近い駐車場に車を止めその巨大な伽藍群に向けて歩みを進めていた。目的地は東大寺二月堂にほど近い小径である。

大仏殿から二月堂へのこの小径のちょうど真ん中あたり、右手に小径が一本南にむかって延びている。東大寺大湯屋へと続く道だ。私の目的はこの二つの小径の合流点を流れるささやかな小川である。二月堂の方角から流れるこのささやかな流れは周囲に深々と草が生い茂り、その上は様々な樹木は覆い被さるように枝を伸ばしている。昼なお暗くという言葉にふさわしい・・・そんな場所ではあるが、私がそこに到着したときの暗さは、まだ夜のそれではなかった。けれども、日頃はひっそりしているその場所に、ざっと見渡したところ100人弱の人がすでに集まりざわめいていた。梅雨時の宵、草深い水辺にこうやって多くの人が集まっているといえば、大方の人はお察しがつくであろう。

そう・・・蛍だ。

ここ、二月堂へと続く小径のほとりを流れるこのささやかな流れは大仏蛍と呼ばれる蛍の名所。もちろんその名のいわれは大仏さんの近くで見られる蛍ということで、何も大仏さんのように巨大な蛍というわけではない。ごく普通の源氏蛍だ。かつては東大寺奈良公園の水辺、あるいは佐保川には蛍が乱舞していた。しかしご多分に漏れず、環境の変化によって蛍は減少の一歩をたどり、1960年代半ばには、絶滅の危機にさらされるようになった。

それからしばし・・・見かねた当時の東大寺執事長・故上司永慶師によって1991年「大仏蛍を守る会」が発足した。蛍の幼虫やエサとなるカワニナの飼育や放虫、小川の環境整備を行うなどして、東大寺に蛍の復活がはかられ、その努力が実って年を追うごとに蛍の数は増え、今に至る。

ということで、私はその人混みの中で蛍の明滅を待つ。

二つ三つ、一つ二つ、草の陰に、木々の葉に仄かではあるが、それでいて確かな存在感を持つ光が見えてきた。あたりは次第に暗さを増してくる。蛍の明滅はいよいよくっきりと私の目に映る。

その時だ・・・重々しい、実に重々しい鐘の音が響く。

奈良太郎だ。

決して美しいとは言えぬ響きではあるが、751年鋳造のその巨大な鐘の音は、1260年前の往古を偲ばせるに充分な荘重さを備えている。ふと・・・かの大伴家持もこの響きを聞いたのであろうか・・・などと文学少年めいた感慨がよぎる。

さて話を蛍に戻そう。夜も八時を過ぎた。日はとっぷりと暮れ、蛍の光を干渉するには充分すぎる暗さになった。しかし・・・いっこうに その数は増えない。あちらに二つ、こちらに三つ・・・とても、乱舞とは言えぬ。周囲の方々の言葉が耳に入る。

「昨日は沢山飛んでいたのになあ・・・」

そう、蛍は午後に入ってから雨が降り、夕刻になって雨が上がったような夜によく光る。昨日はその条件にぴったりとはまる宵であった。それに比して、今日は朝からの好天。気温も30度を超え、小川の周囲は乾きに乾いていた。どうやら、蛍鑑賞にはあまり好適とは言えぬ一日だったようだ。昨日来ておけばよかったとは思ったが、もう遅い・・・

ところで、ここまで来て・・・いくらかでも蛍が出ていたのならその映像は・・・とのお声が聞こえてこないでもない。

そんなお声には自信を持ってお応えしよう・・・無理、私の写真撮影に関する知識と技能では到底無理・・・と。

しかしながら、それではあんまりに慳貪に過ぎよう・・・蛍は無理であったが前日の土曜日、朝から大神神社のササユリを撮影しておいた。これで勘弁していただきたい。

415ササユリ1

415ササユリ4

最後に・・・それでもどうしても大仏蛍の映像をご覧になりたい方のために・・・

コチラをご覧あれ・・・

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