大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(序)

先日までお読みいただいた宇太水分(ウダミクマリ)神社についての一連のレポートの冒頭に忍阪(オッサカ)という地名が出てきた。そのときに

忍阪はおそらくは日本で最も早い時期に仮名表記された地名で、443年または503年のものとされる和歌山は橋本市にある隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡の銘文に「意柴沙加(オシサカ)」と記されている。このことから、この地が古くは「オシサカ」と呼ばれていたことが分かる・・・なんてことを書きはじめると、目的地にはいつまでたっても辿りつけない。この周辺のことについてはいずれまたってことで今日は先を急ぐ。

と書いて、中途半端なままになっていたので少々気持ち悪い。ということで、今日はこの忍阪にまつわる思い出を少しく書き連ねることとしたい。

それは私がまだ大学生であった頃の話だ。いつもおいでの方ならご存じのごとく私はその大学にあった万葉集の研究会(万葉輪講と呼んでいた)に属していた。毎週月曜日、すべての講義が終わった後、面々は学内の一室に集い、毎回一首ずつ万葉集の歌を訓む・・・それがこの会の活動である。16時30分、それが開始時刻だ。終了は、早くて6時。遅いときには7時を回っていたように思う。「三十一文字・・・みそひともじ」を訓み、味わうために最低1時間半、長いときには2時間半もかけていた。なんともまあ、悠長な話である。

あらかじめ決められた担当者が、その日のために調べてきた万葉歌一首について報告する・・・それだけの会である。担当に当たったものは、その報告日のかなり前から準備を始める・・・私の場合でいえば、最低でも2週間はその準備に要したと思う。その間、どうしても出なければならない授業の時間以外は殆どの時間、図書館で過ごしていた・・・。

報告が終わると質疑が始まる。ご存じのように万葉集の時代には平仮名がない。漢字のみで大和言葉を表記していた(いわゆる万葉仮名)ために、今なお、その訓みが定まらぬものがある。したがって、歌の解釈以前に、その訓みを確定しなければならないわけであるが、歌によってはそこでひと苦労。さらには語義について・・・そしてその背景、作者の意図などについて会員それぞれの意見が交換される。そして・・・もったいなくもかたじけなくも、学生同士の拙い討議におつきあいいただいている恩師に、その行方定まらぬ討議の方向を整理していただく。あるいは学生たちの底の浅い知恵を補っていただく。どうしても、上記のような時間がかかってしまう。

今も尊敬してやまぬ恩師は、以前このブログでも紹介した学徒出陣の経験のある先生、そしてこの先生がこの年定年によりご退官になったゆえ、代わりに着任された大学院をお出になったばかりの気鋭の先生(今なお大阪にある大学において教鞭をふるわれていらっしゃる)・・・このお二人である。

・・・と、前置きが少々長くなってしまった。本題に入る。

この万葉輪講は毎年春と秋に、万葉集に詠まれた故地を実際に歩き、万葉人の心情に少しでも近づこうとの意図で徒歩旅行を行っていた。思い出とは合計8回私が参加したその徒歩旅行のうちの一つの思い出である。

それは確か私が2年生の時の秋の徒歩旅行である。

集合場所は近鉄長谷寺の駅、定められた時間に一同は集まった。私にとっては4回目の徒歩旅行である。この日の徒歩旅行に対しては、私だけではなく、他の男子会員も少なからぬ期待を抱いていた。いつもなら我が大学の万葉輪講単体の徒歩旅行であるのだが、この日は違っていた。我が万葉輪講を卒業なさった先輩のお二方がが当時教鞭をふるっておられた京都と大阪の女子大の学生が参加する予定になっていたのだ・・・いわゆる合ハイ(懐かしい言葉だなあ)である。

期待の胸をふくらませ、集合時刻よりかなり早めに駅に降り立った我が輪講の男子諸君(私を含む)は、その先輩がお連れになった女子大生(確か5人だったと記憶する)のあでやかな姿を見て、かなりショックを受けた。京都の町、大阪の町でその姿を見たのなら、さして驚きもしなかったのだが・・・その驚きの内容については読み進むうちに明らかになるのでここでは詳述しない。我が師はすでに到着なさっていたかと記憶する。集合の時間は来た。早速出発である。

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最初の目的地は万葉集の冒頭にその御製をのこす雄略天皇が天の下を治めたもうた泊瀬朝倉宮の伝承地である。私たちは予定の時刻をやや遅れて長谷寺の駅を後にした・・・