大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(1)

長谷寺の駅を後にして最初に私たちが向かったのは泊瀬(ハツセ)朝倉宮の伝承地である。この宮において天下を治めたもうた雄略天皇は、万葉集巻の一のその冒頭にその御製を残す。

篭(コ)もよ み篭持ち 堀串(フグシ)もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

ふと見かけた春菜を摘む娘たちに雄略天皇は親しく、「篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち」と声をかける。「篭」「堀串」は春菜を摘むための道具、「み」は美称。まず天皇はその持ち物を褒め讃える。そしてやおら「家聞かな 告らさね」と住所を聞く。夜になって男が女の元へ通うというのが通常の結婚の形であった時代のことだから、これは必須の行為だ。けれども・・・女は容易には靡かない。仕方なく天皇は自らの立場を明かす。そして「そんな私から家も名も言おうか『我こそば告らめ 家をも名をも』」と歌いおさめる。ここまでくればもう女はその名と家を天皇に告げねばならぬ。なんとなれば「そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ」というようなお方に咲きに名告らせるわけにはいかないからだ・・・

・・・というのが、この万葉集冒頭を飾る雄略天皇御製に対する一般的(であると私が理解する)な解釈であろうが・・・端的に言って「ナンパ」の歌である。相手やその持ち物を褒めては気を惹いて、住所や電話番号を聞く・・・いや最近ならばメルアドか?・・・・そしてなかなか教えてけれなければ、自分のアピールポイントを・・・

まさしく現代にも通じる「ナンパ」の常套手段である(かどうか「ナンパ」をしたことのない私はよく知らないのだがまあこんなとこだろう。)。万葉集は「ナンパ」の歌から始まっているのである。性行為自体が秋の収穫や豊漁を予祝すると信じられていた時代、この上なく尊い存在である天皇が「ナンパ」し、それに成功する・・・なんてことは、これ以上おめでたいことはないことであった。以下に続く歌々・・・そしてこの(おそらくはと当時まだ万葉集などとは名づけられていない)歌集が実り多いものになることを願い、この歌はその冒頭に据え置かれたのだ。本当に雄略天皇の御製なのかどうか疑問は残る(というより、ほとんどその可能性はない)が、ここではそんなことは問題ではない。そうだという伝承があり、万葉人がそのように認識していたことが、ここでは重要である。

・・・話を徒歩旅行に戻そう。私たちは泊瀬朝倉宮の伝承地へと向かっている。ただここにも若干の問題が・・・

泊瀬朝倉宮の「伝承地」というだけに、いくつかその候補地があるのである。長谷寺駅から北上し国道165声線沿いに西に向かう。出雲の集落を過ぎ黒崎に至る。国道を挟むように白山神社がある。そして、その境内に桜井市出身の文芸評論家保田與重郎の揮毫、「万葉集発燿讃仰碑」と書かれた石碑がある。「万葉集発燿」とは上記の長歌を指しているのであろう。

けれども・・・その日・・・私にはこのお社を訪れた記憶がない。30年以上も前のことだから忘れているだけのことかもしれないが、とにかくその記憶がない。私の記憶といえば山中の木立の中にあった広場であらかじめ用意してあった徒歩旅行のための資料を開き、師からそのレクチャーを受けている光景のみなのだ・・・

実は、泊瀬朝倉宮にはいくつかの伝承地がある。上述の黒崎、白山神社はそのうちの一つ。白山神社からやや北東に登った地点「天の森」もその候補地。ここでちょいと調べてみる。

泊瀬朝倉(ハツセアサクラ)宮址 雄略天皇の皇居なり。日本書紀雄略天皇、設壇於泊瀬朝倉、即天皇位、遂定宮焉。通証云、在黒崎岩坂二村間。

とは吉田東伍の大日本地名辞書である。吉田はその説明に日本書紀の記事を引用し、そこでその所在の説明のため「在黒崎岩坂二村間」と通証(「日本書紀通証」谷川士清)の説を借りている。今の桜井市「黒崎」と「岩坂」の二つの村の間にあるというのだ。これまた随分と幅の広い指摘ではある。要は詳しくは定めることが出来なかったということなのだろう。以下は原著に当たることが出来なかったゆえ参考までにとどめておいてほしいことだが、「大和志(1734『五畿内志』)」は黒崎天の森説を説く。「万葉集発燿讃仰碑」のある白山神社説は、どうやら天の森説を知っていた保田與重郎が、天の森では少々地勢的に宮処にはふさわしくないということで勝手に定めてしまったものらしい。そして鎌倉時代の史書「帝王編年記」は黒崎とは初瀬川を挟んで南に続く山並みの中・・・岩坂であると説く。

上に私は「私の記憶といえば山中の木立の中にあった広場であらかじめ用意してあった徒歩旅行のための資料を開き、師からそのレクチャーを受けている光景のみなのだ・・・」と書いた。そうだ・・・私がこの日訪れた泊瀬朝倉宮の伝承地とは、この岩坂の地なのであった。

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長谷寺の駅からの詳しい道順は忘れた。覚えているのは近鉄大阪線のガードを潜り抜けたこと、そして険しい坂道を上り詰めた場所にその目的地があったということのみである(ただしその険しさはその日の徒歩旅行全体からすればほんの序の口であった)。そして・・・なんでこんな山奥に宮処を定めたんだろうか・・・という疑惑が湧いた。


泊瀬朝倉宮については以後に新たな発見があった。1984年桜井市脇本の地(白山神社からは165号線沿いに西に750m)で、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見されたのだ。その規模から考えて朝倉宮の有力な候補地とされている。そして近年その南側に・・・

奈良県橿原考古学研究所橿原市)は24日、同県桜井市脇本遺跡で、古墳時代中期(5世紀後半)に築かれた大規模な堀状の遺構(南北60メートル、東西30メートル)と、その南端に石積みの護岸を発見したと発表した。すぐ北東の台地では、雄略(ゆうりゃく)天皇泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)に関連するとみられる大型掘っ立て柱建物が見つかっており、専門家は遺構が宮の周濠(しゅうごう)や池だった可能性があるとしている。 雄略天皇古墳時代の5世紀後半に在位した21代天皇で、ヤマト王権の勢力拡大を進めたとされる。脇本遺跡は、宮である泊瀬朝倉宮の推定地。 今回見つかった遺構の底面は、南北の高さがほぼ水平で、水がたまった形跡はなかった。堆積(たいせき)物がたまらないように管理されていたか、そもそも水が無かったかは不明という。 石積みは、約20〜30センチ大の石がほぼ東西方向に約30メートルにわたって直線状に並び、遺構の底からの高さは約1.2メートルだった。出土した器などの土器から、いずれも5世紀後半に造られ、6世紀後半の古墳時代後期にはなくなったとみられる。遺構や石積みは調査区域外に及ぶ可能性が高いという。 「脇本遺跡:南端に石積みの護岸発見 宮の周濠か 奈良」毎日新聞 2012年09月24日 18時29分(最終更新 09月24日 21時48分)

脇本は、当時の水運の中心泊瀬川に臨み、その東に伊勢さらには東国へと抜ける街道もひかえている。さらにはもし仮にこの地に宮があったとして、そしてそれが纏向で発見された巨大建造物の様に西方を向いて(即ち日出ずる方を背に)建てられていたとすれば、大和盆地の東端にあってその宮殿は盆地全体を、その威容をもって睥睨していたことであろう。

・・・ますます・・・岩坂説、天の森説の影が薄くなったようだ。