大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(2)

岩坂の泊瀬(ハツセ)朝倉宮伝承地の次に私たちが向かうべき場所は忍阪(オッサカ)の里。岩坂からは一つ山を越えた先の竜谷という谷あいの集落の西に聳える外鎌山(朝倉富士293m)の向こう側だ。つまり私たちは最短のルートを辿ろうとすれば二つの尾根を越えて行かねばならない。しかるに今地図で確かめると、岩坂と忍阪を結ぶ尾根越えのルートは存在せず、岩坂から忍阪へ行こうとするならば、いったん岩坂から北側へ下り国道165号線、あるいは初瀬街道を西に3㎞ほど進み、脇本遺跡の辺りから外鎌山の西に広がる団地(朝倉台)を抜けなければならない。

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ざっと5㎞強といったところだろうか・・・

けれども私には、この日165号線、あるいは初瀬街道沿いに3㎞も西進した記憶はない。仮にそのルートをたどったとするならば、そのルート上にある白山神社は立ち寄ったはずだが、そんな記憶は一切ない。さすれば・・・やはり二つの尾根を越えて・・・と考えるしかないのだが、これもまた自信がない。本当に情けないばかりの私の記憶力である。

ただ・・・目の前に広がる忍阪の里を目前にしたのは、この後紹介する舒明天皇陵、鏡女王(カガミノオオキミ)の墓をたずね、石位寺に参詣した後であったと思う。これらはいずれも外鎌山の南側の山中に存し、もしその後に初めて忍阪の里を目にしたという私の記憶が正しいとするのならば、私たちは少なくとも竜谷から外鎌山を越え上記の陵墓、寺院を先に訪れたことになる。そして・・・忍阪の里に出た・・・

思い出せないことをいくら思い出そうとしても仕方ない。甲斐のない詮索は止めて、その山中で私たちが見たものについての紹介を始めよう。

まずは舒明天皇陵。

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舒明天皇は629年から641年の在位。皇后は後の皇極天皇(更にのち重祚し、斉明天皇となる)。在位中の業績についてはめぼしいものがないが、古代日本史においては一つの画期をなす天皇であることは間違いない。なんとなれば、その皇后皇極天皇の在位中に大化の改新の始まりとなる乙巳の変(645年)・・・そう、蘇我入鹿が誅殺されたあの事件だ・・・が惹起し、その首謀者である中大兄皇子天智天皇)はこの二人の間に生まれた子であることに加え、この政治革新運動をささえ、後に壬申の乱を経て皇位についた大海人皇子天武天皇)もまたこの二人の間に生まれた皇子であるからだ。すなわち舒明天皇は今につながる皇統の御祖(ミオヤ)となる大切な存在なのである(少なくとも万葉集の編纂にかかわった人々においては・・・)。

そのことはこの天皇の御製が先日紹介した雄略天皇の御製の直後、万葉集においては2番目に位置していることからもうかがえる。

大和には 群山(ムラヤマ)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

国見とは支配者がその支配地を見渡せる場所に登り立ち、その支配権を確認することを意味する。そしてこの時、その支配地はその支配者の聖なる力にふさわしい豊穣の地でなければならない。「国原は 煙立ち立つ」とは民草がその食事のために家々から調理の煙を上げている様を言う。「海原は 鴎立ち立つ」とは、その地が生命にあふれた地であることを言う。この際、海のない大和盆地の、それも標高がやっとのこと150mを越えるばかりの「天の香具山」から海が見えるはずがないなどという詮索は無用である。聖なる力を持った王者、舒明天皇には確かに大海原が見え、その上を飛び交う鴎の姿が見えたのである。そしてそのことはそのまま舒明天皇の権力が狭い大和盆地を越え、海に囲まれたこの日本(ヤマト)の国全体に及んでいたことを意味するのだ。

ところで前回紹介した雄略天皇と、この舒明天皇の御製とが、既述のごとく万葉集の冒頭部を飾っているのであるが、それはなぜか・・・ということについてここでふれておきたいと思う。

舒明天皇の御製については、上述のごとく万葉集を生み出した皇統の御祖であるということを考えれば、そんなに詮索する必要はないだろう。問題は雄略天皇だ。それまでに数多く存在していたはずの天皇の中で、何故この天皇の御製が栄えある冒頭歌となりえたのか・・・その理由を考える必要があるだろう。

雄略天皇は、「宋書」、「梁書」に記されるいわゆる「倭の五王」の中の倭王武だと考えられている。その倭王武の宋王に贈った上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が詳細に書き記されている。さすれば、その事の真偽はともかくとして、後の世の人々にはこの天皇大和朝廷の権威をこの国中に押し広めた偉大な英雄であったとの認識が人々にあったとしてもおかしくはない。くわえて、古事記で描かれるこの天皇の姿は力を持って周囲を制圧し靡かせる雄々しい存在でもあり、多くの女性と恋歌を交わした色好みの天皇(これは古代社会においては理想的な人格である)でもある。古事記は上・中・下の3巻仕立ての書であるがそれぞれの内容を見るに上巻は「神々の世界」、中巻は「人と神との共存の世界」、下巻は「人のみの世界」として描かれている。そして、雄略天皇はこのうちの下巻の雄(武力、色好みともに)であった。

万葉集の編纂者たちはこの「人のみの世界」、すなわち歴史的世界の代表者としてこの天皇を認識していたのであろう。そしてその認識を具現化したのが、この天皇の御製を万葉集の冒頭に位置させるという配慮である。彼らの御祖舒明天皇の直前の天皇推古天皇にて古事記は終わる。推古天皇までの時代が万葉人にとっての歴史であったのだ。

そして舒明天皇の御代において万葉集の編纂者たちにとっての現代が始まった。

歴史時代の雄と、現代を開始させた存在・・・この 二人の御製を万葉集の冒頭に位置させて万葉集は始まる。そのことに我々は編纂者たちの意図を汲み取らねばならない。

ところでこの舒明天皇の陵墓はそれまでの天皇陵とは全く発想から建造されていることをここで申し添えておきたい。

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いわゆる古墳時代において、その陵墓の主流は巨大な前方後円墳だった。それが7世紀に入って、大陸の政治システムの影響を受けるようになると大型の方墳、円墳へと変化していった。そしてさらにこの舒明天皇の陵墓にいたって、8角形の石組みにに縁取られた八角墳が採用されるようになる(この後の天智天皇陵、天武・持統合葬陵、文武天皇陵が同様の形式である。そうそう、先年発掘調査の結果、斉明天皇の陵墓の可能性が高まった牽牛子塚古墳八角墳である)。この時代に八角墳が天皇陵に採用されだしたのは、かつては畿内を中心とした首長連合の盟主ほどの立場であった大王(天皇)の地位が、大化の改新などの中央集権化運動の結果として中国の天子のような唯一の最高権力者として意識されだし、その意識を形に表したものだという学説もある。

万葉集には「大王(オオキミ)→天皇」の枕詞として「やすみしし」という語が存する。「やすみ」は「八隅」、すなわち全方位を意味し、「しし」は「知りし」のつづまったもので、「知る」は統治することを意味する。すなわちこの国の全方位、この国のすべてをお治めになっている・・・というのがこの語の意味である。そしてその絶大な権力を目に見える形にしたのがこの八角墳なのである。

・・・この後、鏡女王の墓、そして石位寺についてもふれる予定であったが、舒明天皇について長く話しすぎた。どうやら次回に回さねばならぬようだ。