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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷2013・・・5

この日の午後の目的地であったひまわりの丘を見たあとは、国道4号線を東進し、今宵の宿を目指す。道は鳴瀬川と並行して走るようになり、そこから6kmほど進んだところで左に折れ、鳴瀬川を越える。あとは、そこから4km弱進んだ先に突き当たった陸羽東線沿いの道に従ってまっすぐ東に向かうのみである。所々に見える小高い丘とまばらに存する民家を除けば、周囲に見えるのはほんのり黄色を帯び始めたとはいえ、まだまだ濃い緑の目立つ稲田ばかりである。緑の海原が、どこまでもどこまでも続いている。そしてその海面はあたりを吹き抜ける西風に微かに波立っている。もう盆も近い故、どの稲穂も豊かに頭を垂れはじめている。

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豊かだ・・・本当に豊かだ。そんな稲田の中を道はまっすぐに続く・・・

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私はこの秋の実りを見るたびにいつもそう思うのであるが、ここ、大崎平野の稲田の広がりは、私のこの思いをいっそう強くする。この地を耕し、かくも豊かな穀倉地帯を作り上げてきたこの地の人々の長年の労苦を思うとき、これもこの国の文化なのだとつくづく思う。文化とは都市の生活者が地方のこういった営みの上にあぐらをかいて築きあげてきたもののみをさして言うものではない。こうやって弛むことのない積年の労苦の上に築き上げてきたものも、そしてこの風景も立派な文化なのだ。

大崎平野は、そしてここに住む人々は、ざっと振り返るだけでも大崎氏、伊達氏、そして明治政府と、その支配者を変えてきた。けれども、この地の人々の営みは決して絶えることはなかった。そして、これから幾年もが、この地の上を通り過ぎ、この地を支配する者が変わったところで、その支配者はこの営みは・・・そして、この風景は決して変えることはできないだろう。そんな強靱さがこの種の文化には存している。もし、この文化が失われるとしたら、それはこの地に住む人々の思いが、この種の文化を好まなくなってきた時ではないのか・・・・

悲しいことだが、それはそれで仕方がない。ただ、言えるのはその時こそがこの国が大きくその有り様を変えるときなのだ。

・・・などと柄にもなく、やや文学的な感傷に浸っていると、天平ろまん館と書いた矢印付きの看板が目に入るようになってきた。涌谷町に入ったのだ。天平の御代には蝦夷と呼ばれた僻遠の地になぜかような施設が・・・一瞬私は戸惑った。そしてすぐに閃いた。

天平15年(743)、聖武天皇は突如「三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かならん事を欲し」大仏の建立を発願する。当初、紫香楽(シガラキ)の地において始められたこの大事業は、翌々年、現在の東大寺のある大和国添上郡山金里に場所を移し続けられることになったが、そこに一つの問題点があった。彼らが作ろうとしていたのは「乾坤相泰かならん事を」を託す、巨大な仏像である。その御身は金色に荘厳されなければならない。ところが当時我が国のどこからも金は産出されていなかった。すべては唐からの輸入に頼らなければならない。けれども、大仏の巨大な御身を覆い尽くすほどの金をいかにして渡海させるのか、また仮にそれがかなったとしてその莫大な費用をいかにして捻出するのか・・・聖武天皇の悩みはつきなかった。そんな天平21年(749)のことである。

陸奥国始貢黄金。於是。奉幣以告畿内七道諸社(天平21年2月丁巳)

正史である続日本紀の記述はあまりにも素っ気ないが、あれほど渇望した黄金がこの日本において初めて発見されたのだ。天皇の喜びは一通りではなかった。長大な詔(ミコトノリ 『続日本紀』宣命第12詔)を発し、年号をそれまでの天平から天平感宝と改めた。この件に関わった人々の叙位があったことは言うまでもない。くわえて、陸奥の国はこれ以降3年の間、ことにその産出地であったこの涌谷I(小田郡)は永年税を徴収されないことになった。

そしてその詔の中で

大伴 佐伯宿禰は 常も云く 天皇朝守仕奉 事顧なき人等にあれは 汝たちの祖ともの云來く 海行はみづく屍 山行は草むす屍 王のへにこそ死め のどには不死 と 云來る人等となも聞召す 是以 遠天皇御世始て今朕御世に當ても 內兵と心中ことはなも遣す

天皇自らによって、一族の忠誠と功績を讃えられ、昇進の機会を得た大伴家持の喜びようも一通りではなかった。当時越中の国守の任により高岡の地にあった家持は、この詔を目にするや、その喜びを押さえきることあたわず「賀陸奥國出金詔書歌一首万葉集巻18・4094~4097)」を詠む。歌中の

我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ

とあるのは先に述べた大仏建立に際しての諸事情を詠んだものである。下線部の「よきこと」とは当然大仏建立の大事業をさす。また余談にはなるが、この長歌を読むとき

海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ

なんて一節も気にかかってはこよう。どこかで聞いたことがあるはずだ。そう、あの「海行かば」である。家持は先の聖武天皇の詔を承けて、大伴、そして同族の佐伯両家の忠誠とその覚悟をこの歌に託した。これはあくまでも大伴、佐伯の一族の宗主たる家の嫡男として生まれた家持の個人的な感慨である。ところが、戦前の誰かさんはそれをこの国の人々全員の「あるべき心ばえ」として軍歌にしてしまった。家持にとってはきわめて心外なことであっただろう。この長歌に詠まれた忠誠と覚悟は自分たちだけのものであったはずなのだから・・・・

ちょいと話が横道にそれてしまった。道ばたの「天平ろまん館」の位置を示す看板から、かような僻遠の地も、今私が住む大和と全くの無縁の地ではなかったことに、私の思いは勝手にふくらんでしまった。ふくらみついでに、この涌谷の地にある黄金山神社についても触れておこうか・・・

天平ろまん館」は、我が国最初の金の産出にちなんで2006年に創設された施設であるが、黄金山神社のそれは違う。

産金に報い、陸奥国の租税は3年間免除され、陸奥国百済王敬福をはじめ関係者には、位階を進めてその功を賞されました。また、祈願奉斎が行われ、地方的神社として存在しておりました黄金山神社は、天平産金に縁起を有したことにより、『延喜式神名帳』に登載され、延喜式内社という由緒ある社、国家の神社となりました。 神社周辺からは、「天平」と刻まれた瓦が出土しており、昭和32年に実施された神社周辺の発掘調査により、建物の柱跡四基が発見されました。この建物は、当時世の中をわかせた産金を記念して建てられたものと考えられ、奈良時代の建築址が明らかになりました。

とは当神社のホームページに記されたこの神社の来歴であるが、そこにはこの神社が1200年以上の歴史を持つ由緒正しき神の社であることが誇らしく述べられている。そして、その境内には

須賣呂伎能 御代佐可延牟等

        阿頭麻奈流 美知能久夜麻尓 金花佐久

と、国語学の泰斗山田孝雄の揮毫になるところの歌碑が設置されている・・・山田孝雄東北帝国大学にも在任していた時期があるから、おそらくはその頃のものであろうか・・・。先にお示しした「賀陸奥國出金詔書歌一首(万葉集巻18・4094~4097)」の第3反歌である。「天皇(スメロギ)の 御代栄えむと 東なる みちのく山に 金(クガネ)花咲く」と訓むことができるこの歌は、4500首を越える万葉歌の中で、最北の地を詠んだ歌として知られる。

ともあれ・・・以降、この宮城北部は律令政府にとって、ただならぬ意味合いを持つ地域と相成った。この地に対する支配の最前線である多賀城が、大伴家持の最後の任地であったことになにやら因縁めいたものを感じるのは私だけではないであろう。

後に奥州藤原氏が、並々ならぬ権勢を誇り平泉などという大都市を、都から離れたこの地に築くことができたのも、さらには義経をかくまったとして源頼朝がこの地を攻めたのも、すべてはこの地に産する金ゆえのことである。黄金の国ジパングの幕開けは、大仏建立にまつわる天平21年のこの出来事にあったのだ。

そういえば私が若い一時期むさぼるように読んだ井上ひさしの「吉里吉里人」もこの地に産した金をモチーフとしたものであった。奥州藤原氏埋蔵金が、この小説中で描かれた「吉里吉里」の国の独立のための資金となったというものであった。

車を運転しながら見かけたほんの数枚の看板だけで、私にこれだけのことを思い起こさせるような地であるから、できれば時間を割いて天平ろまん館にも黄金山神社にも足を運びたいという思いはあったが、なにぶん夕刻が近い。この日の宿に告げたチェックインの時間も近い。ここは涙をのんで先を急ぐこととした。

・・・目指すは南三陸町(この地名はかの震災のおり、しばしばお耳にした地名であろう)、志津川の地である。

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