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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷2013・・・6

古代日本における黄金郷(ちょいと大袈裟)であった涌谷町を抜けると、道は、ゆったりと西流する大河を渡る。北上川である。私たちはここからしばらく北上の流れを左に見つつ東進することになるが、1kmほど車を走らせたところで、北上川は私たちの視界からは姿を消す。大河が、再び私たちの前に姿を現すのは、そこから2kmほど進んだ登米(トメ)市柳津(ヤナイズ)の地においてである。

ここでこの東北一の大河について少しく話しておきたい。先ほど「私たちはここからしばらく北上の流れを左に見つつ東進する」と書いたが、正確には「私たちはここからしばらく旧北上の流れ左に見つつ東進する」と書かねばならないところであった。ご存じの通り北上川岩手県岩手郡岩手町にある弓弭の泉を水源とし、岩手・宮城の両県を貫流し、太平洋に注ぐ。長さ249km、流域面積は10,150 km²、東北随一、日本でも4番目の大河である。

しかしながらこの太河は、鎌倉時代初頭に奥州藤原氏が滅んでの後、有力な豪族がこの地域に現れることがなかったために、その流域の治水事業はいっこうに進まず、その大規模な治水事業は17世紀に入っての伊達藩の治世を待たねばならなかった。関ヶ原の大乱の後、この地を知行することになった伊達氏は農耕地の確保・水運のルート確保の目的で、この北上川をはじめとした周囲の小河川を整備統合し、大規模な流路の付け替え工事を行った。結果、流域の農地は飛躍的に増加し、当初62万石といわれた伊達藩内の生産は江戸末期には100万石をゆうに越えるものとなった。

そして北上川が、今私たちが見る姿となったのは明治44年から昭和9年にかけての北上川第一期改修工事の後のことである。伊達氏による大規模な河川改修も、この地域の諸河川の氾濫を完全に防止することはできなかった(江戸時代約270年間に180回以上、明治時代44年間に31回、大正時代15年間に10回の氾濫・・・南部領のものも含む)。明治政府および宮城県は抜本的な改修の必要に迫られていたが、その根幹が北上川第一期改修工事における、北上川の大規模な流路の付け替え工事であった。その概要は柳津の地において、その派流である追波(オッパ)川を大規模に開削し、放水路としてそれを利用するというものであり、この工事により、北上川はこれまで通り石巻湾に注ぐ旧北上川と、追波川沿いに新たに開削された新北上川の二つの流れを持つようになった。(北上川治水の歴史と現状 高橋秀雄

先の大震災の際、その震源地より東北の地をおそった昏く冷たい波が北上川を遡り、その川辺にあった大川小学校を襲い、児童108名中74名、教職員13名中10名が死亡したというかの惨事を皆さんはご存じだと思うが、その北上川とは、明治から昭和にかけて行われた開削工事によってできた新北上川のことである。

さて、柳津の地において再びこの大河を越えた私たちは、ここまで北上川沿いに北上してきた国道45号線に入る。国道45号線はこの地から北上川に別れを告げ、海辺を目指し南三陸町に至り、そのまま海岸線を北上し青森に至る。したがって私たちがこの国道を走るのは南三陸町までのほんの17~8km程である。20分ほど車を走らせると、海岸沿いの曲がりくねった道沿いに今宵の宿が見えてくる。・・・まだ、約束したチェックインの時間には余裕がある・・・私たちは南三陸の町の中心部であった志津川を訪れることにした。

実は今から7、8年前に帰郷した際も、私たちは同じ宿に泊まり、志津川を訪れていた。当時は平成の大合併の直前で本吉郡志津川町という名であったと思う。以前紹介したことがある山内さんという鮮魚店がこの町にはあり、毎年冬になるとそこから牡蠣を購入していた関係もあって、どんな町か一度見ておきたかったからだ。この町が津波に襲われたのは今回のことばかりではない。この地の長い歴史において、幾度も津波はこの地の人々を襲った。ごく最近には私が生まれた1960年にも、チリ地震津波の被害を受けている。そんな関係もあって地震震源地となったチリ政府から、友好の証として1991年にモアイ像を送られていた。海辺の公園に鎮座していたそのモアイを見せ、かつてこの地を襲った惨事について子ども達に学ばせたかったからだ。

けれども・・・今回の惨事は、前回の惨事を遙かに上回る規模であったことは周知のごとくである。再訪した私たちの前に、志津川の町は姿を消していた。モアイも例外ではなかった・・・この町の防災のシンボルであるモアイは瓦礫の中から頭部と胴部が切り離された姿で発見されたという。頭部は今この町にある志津川高校の生徒昇降口の前に安置され、登校してくるこの町の将来を担う若者たちを優しく見守っている。

そんなこの町に今年の5月、新たなモアイ像が姿を見せた。事の詳細は以下のサイトに詳しい。

http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/ac0b/139205/haruka/index.html

愚にもつかない私の文章であれこれ言うよりも、こちらを読んでいただいた方がはるかにわかりやすい。極めて感動的な物語がそこにはある。

ただその日・・・なぜか私の脳裏からはそれらの事実がすっとんでしまっており、そういえばと思い出したのがこうやって記事を書いている今である。真に情けない限りである。何もなくなった志津川の旧市街地を見て回ったのち、予定の時刻よりやや早く私たちはこの日の宿、南三陸ホテル観洋に着いた。所定の手続きを済ませ、素朴な・・・まことに素朴な中居さんに案内されて部屋に入る。荷物を置いて、海に臨む窓辺のソファーに座る。

ひといきを突いた私は、自分に何やら哲学的な視線が向けられているのに気が付いた。

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ウミネコだ・・・

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ウミネコが宿に着いた私たちを迎えてくれたのだ。

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窓の外には無数のウミネコたちは飛び交っている。そのうちの1羽が私たちを歓迎するために、その窓辺までやってきてくれたのだ。

その後も幾羽ものウミネコが入れ代わり立ち代わり我々の部屋を覗きに来る。そして、あの日の悲惨を見届けたその目を持って、私たちを見つめていた。

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