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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

帰郷2013・・・8

今回の帰郷もとうとう最終日となった。昨夜早く寝すぎたせいか、まだ暗いうちに目覚めてしまった。外からはかすかに潮騒が聞こえる。時計を見ると4時を回ったところである。家にいるときでも夏は5時過ぎには起きているので、このまま起きて朝風呂にでもつかろうと思った。

浴場は4時から使える・・・といっても、起きてすぐの入浴は体にさわる。しばらくは窓辺のソファーに座り海でも眺めておくことにした。宮城の海はすべからく東に向かって開けている。今はまだ暗くてよくわからないが、晴れていれば美しい日の出が見られるはずである。

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まだまだ暗い・・・晴れているかどうかさえ判断がつかない。

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明るくなってきた。どうやら靄がかかっているようだ。日の出は少々無理かもしれない・・・と残念に思いつつ、まだ敷きっぱなしになっていた布団に戻り、枕元においてあったミネラルウオーターをごくり・・・そして、しばしの間ゴロゴロ。そして時計を見る。

4時40分・・・もうそろそろ朝風呂に行こうかと干してあったタオルをとりに、窓辺に向かった。

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見事な朝日である。海面近くはまだ靄っていて、いわゆる日の出と呼べるものではないが、赤々と輝く日輪はまっすぐに光の道を志津川の海に描いている。海面は限りなく穏やかで、今から2年と5か月前に狂気のごとくに猛っていたことなどは到底想像できぬ。

静かだ・・・穏やかだ・・・

その日、人々はいつもと変わらぬ朝を迎え、いつもと変わらぬ一日を過ごしていたはずだ。少なくとも、あの日の14時46分18秒に牡鹿半島沖の東南東13km、仙台市東方70kmにおいて発生した激烈な揺れが、それぞれの人々が住まう場所に到達するまでは・・・

・・・そう、被災した誰もがそうなのだ。その瞬間が自分たちに訪れるまで、普段と何も変わらない・・・そんな一日を過ごすはずだったのだ。すべてのマスコミは、「その後」については、目を覆いたくなるぐらいに伝えてくれる。けれども、そこに暮らしていた人々がその瞬間までは、被災地ではない地域の人々と全く同じように、至極当たり前の瞬間の連続を過ごしていた事実をないがしろにしている。

ふと私は、かつて読んだ高橋和巳の「憂鬱なる党派」の主人公西村恆一のことを思いだした。教師を務めていた西村はその職を辞し、故郷広島から大阪へと出る。自ら執筆した名もなき原爆被害者達の記録を出版しようと空しい努力を重ねる。そして・・・彼の描くところの原爆被害者は、1945年8月6日8時15分、その瞬間まで当たり前すぎるといえば当たり前すぎるほど(もちろん戦時下という状況ではあったが)の暮らしを営んでいた。そして彼らはその直後にあのような恐ろしい現実が訪れることを誰一人として夢にも思わずにいた・・・・そんな一人一人の何気ない毎日を、西村は克明に描いていた(ということになっている)。

私たちはあの日の悲惨を忘れてはならない。しかしそれと同時に、その悲惨が特別な誰かの上に降りかかった厄災ではないことを胸に刻み込まねばならない・・・そう、被災者の誰もが、決して特別な誰かでは決してなかったのだ・・・

日輪は・・・2011年3月12日の朝も・・・何も・・・何もなかったように、昨日とはうって変わって静まり返った志津川湾を照らしていた。

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