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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(3)

・・・この後、鏡女王の墓、そして石位寺についてもふれる予定であったが、舒明天皇について長く話しすぎた。どうやら次回に回さねばならぬようだ。

なんてことを書いてから、かれこれもう2か月がたった。「初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ」と題して書きはじめたこの一文、間に帰郷の報告やら、薬師寺の水煙やら、元興寺やらで長い中断になってしまったが、そろそろ大和路を歩くにもふさわしい時期になってきたゆえ、再開しようと思う。

ということで、再開の第一稿は上に述べた鏡女王(カガミノオホキミ)と石位寺について・・・

前回の記事で紹介した舒明天皇陵からさらに山奥に入る事、ほんの5分。

Photo0035

こんもりとした木立に出くわす。方角はやや北寄りの東方・・・何てことを書かなくとも道は一本しかない。迷う筈がないからご心配なく。

鏡女王の素性は不明というしかないが、かつて額田王の姉であるという説が一方にはある(本居宣長の玉勝間あたりがその言い始めかな?)。額田王の父が鏡王(カガミノオホキミ)であることから、その名が似通っていることからそう考えられたのであろうが、日本書紀にはかような記事はなく、確証はない。一方では舒明天皇の皇女ではないかとの説もなされている(中島光風・・・阿川弘之の「春の城」に出てくる「矢代先生」のモデル?)。これまでの記述からもうかがい知れるがごとく、その墓所がごく近隣に設けられていることがその根拠になっていたと記憶するが・・・確か・・・延喜式も諸陵寮に「押坂内陵 高市崗本宮御宇舒明天皇。在大和国城上/郡。兆域東西九町。南北六町」とあり、この記述に従えばこの鏡女王の墓はその域内にあることが根拠だったような気がする。縁もゆかりもない女王の墓が天皇陵の域内にあることは考えにくいという話だった。

いずれにしろ実にひそやかな墓所だ。

女王は初め天智天皇に嫁し、

天皇賜鏡王女御歌一首 妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを 鏡王女奉和御歌 秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは

万葉集巻二/91・92

というやり取りをしたが、後に藤原鎌足の正妻となる。

内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首 玉櫛笥(タマクシゲ)覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも 内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首 玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ

万葉集巻二/93・94

なんてやり取りは、その後のものであろう。

天皇の妻であった女性(しかも皇女)が、臣下の正妻になるなんて通常では考えられないことらしいが、鎌足と天智天皇の関係を考えればあながち考えられないこともない。天皇の所有物と考えられていた女官「采女」は何人たりとも手を出してはいけない存在であったが、鎌足はその采女の安見兒(ヤスミコ)を賜り、

内大臣藤原卿娶釆女安見兒時作歌一首 我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり

万葉集巻二/95

という歌を残しているぐらいだから。

女王のその後の動向としては、天智天皇の8年、鎌足の死後にその菩提を弔うために山階寺(後の興福寺)を建立。他には天武天皇の12年7月に死去したことが「秋七月 丙戌朔己丑 天皇幸鏡姬王之家 訊病 庚寅 鏡姬王薨」と日本書紀に記されている。また、興福寺縁起には8世紀初頭の大立者、藤原不比等の母であるとも伝えられている。

・・・と・・・今日は他に石位寺についてご紹介する予定であったが、一つ目の鏡女王について長く述べすぎた。次回は石位寺から粟原寺跡までをご紹介したいと思う。