大和逍遥   

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初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(4)

鏡女王、舒明天皇陵を後にして再び忍阪の集落に戻る。次に訪れるべきは石位(イシイ)寺だ。忍阪の集落には東西に旧街道・・・忍阪街道・・・が走っている。私たち一行は、この古道に突き当たるや、道に従って南東に進む。ほどなく左手に小さな高台が見える。石位寺はその上にある。寺といっても、現在は小さな御堂と本尊を安置するコンクリートの収蔵庫があるだけの無住の寺である。創建はかなり古いものとは思われるが不明としか言いようがない。御堂は元禄期のものだそうだ。

ご覧の通り実にひそやかなものだ。

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裏手に回ると下のようなコンクリート製の収蔵庫。何が収められているかというと・・・

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これだ。

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白鳳時代に製作された如来三尊像・・・という言い伝えだ。なんでも我が国において現存最古の石彫りの三尊仏で、国の重要文化財に指定されているらしい。三尊を刻んだ石版は、高さ1,15m、最大幅は1,5m、厚さ0,2m程の砂岩製である。真ん中に座っていらっしゃるのは如来様。その質素な身なりでそう判断できる。となると、左右に合掌して立っていらっしゃるのは、少々装飾品が目立つ・・・観音様かな・・・頭の上からは後光が射していらっしゃる。しは極めて念入りな彫りによって造形されており、三尊とも薄い法衣を通して内部の肉体の起伏がよく分かる。布の質感も巧みだ。作られたときは彩色されていたとみえ、像の唇と着衣にわずかに紅が残っている。

万葉集を学んでいた私たちにとっては、これこそがこのひそやかな寺を訪れる理由であった。というのは、この石仏の願主が万葉歌人額田王であるとの伝承があるからだ。額田王の念持仏として作られ、もともとはこの後に訪れる予定の栗原(オオバラ)寺にあったものが、そのすぐそばを流れる栗原川が氾濫した際に流されてきたものをこの寺に安置したというのだ。何故これが額田王とかかわりのあるものとされるのかについては、王が粟原寺の建立に深くかかわったとされている考えが一部にあり(下で述べる)、ならば、この御仏も額田王ゆかりのものだ・・・ということらしい。

今はかようなコンクリート製の収蔵庫に安置されているが、その時私が見た時には本堂内の厨子に安置されていて、なんの手続きがなくとも見られたように記憶するが(例によって定かではない)、今はこの御姿を拝見するためには桜井市の観光課とコンタクトを取らねばならないらしい。拝観できる期間(3~5月、9~11月)、時間(10時~16時)が定められていていささか不便だ。これもこの御仏の姿を長く後世に伝えるため・・・やむを得ない。

そうそう、この石仏の造形は長谷寺の銅盤法華説相図中の三尊物とよく似ているらしいということ最後に申し添えておこう。

山口誓子 石位寺にて 雨蛙黒き仏の宙に鳴く

(なお上にお示ししたこの御仏の写真は近くの駐車場の掲示板に張ってあったポスターを写したもの。よって表面は掲示板のガラスのためにてかってしまっている。実物は重要文化財、やすやすと撮影することはできない・・・が、ネット上ではあちらこちらでその御姿を拝見できる。興味のある方は・・・コチラ)

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石位寺を後にした私たちが向かうのは、粟原寺。そんな私たちの目の前に巨大な姿を見せ始めたのは赤坂天王山古墳

多武峰から北西に延びる尾根の先端に築かれた大方墳は古くから崇峻天皇の御陵と信じられてきた。日本書紀にこの天皇蘇我入鹿の手の者に暗殺されたと倉橋の地に葬られたと記されており、この地域にそれにふさわしい古墳はこの赤坂天王山古墳以外には見あたらないためである。が、明治に入って南西に1.7Kmほど離れたところにある現在の倉梯岡上陵が崇峻天皇陵とされた。けれども、この明治に入っての天皇陵の比定があてにならないこと、周知の通り。歴史学者・考古学者の間ではいまなお本古墳崇峻天皇陵と考えているものが多いという。

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粟原寺跡へは女寄(ミヨリ)峠の下を東へ延びる道を、粟原川に沿って遡らねばならない。勾配は次第に急峻になって来る。先ほどの赤坂天王山古墳の写真を撮った場所が標高100m、そこから170m程登ったところに粟原寺跡はある。

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今は廃寺となっている粟原寺の創建に関わっての資料は、現在談山神社がが所蔵する『粟原寺三重塔伏鉢』(国宝 伏鉢とは、仏塔の上部にある相輪の一部)に刻まれた銘文のみであるが、この銘文によりこの寺の由緒がかなり詳しく知ることが出来る。以下に原文のまま示す。

寺壱院四至 限東竹原谷東岑 限南太岑 限樫村谷西岑 限北忍坂川 此粟原寺者仲臣朝臣大島惶々誓願奉為大倭国浄美原宮治天下天 皇時日並御宇東宮敬造伽藍之爾故比売朝臣額田以甲午年始至於 和銅八年合廿二年中敬造伽藍而作金堂仍造釈迦丈六尊像 和銅八年四月敬以進上於三重宝塔七科鑪盤矣 仰願籍此功徳皇太子神霊速証无上菩提果 願七世先霊共登彼岸 願大島大夫必得仏果 願及含識具成正覚

私の力不足で、数か所訓読できない部分もあり、皆さんに書き下し文をお示しすることが出来ないのが残念だが、大意としては「仲臣(ナカトミ)朝臣大嶋が、草壁皇子を忍び伽藍の建立を誓願した。大嶋の死後、比賣(ヒメ)朝臣額田によって甲午年(持統天皇8年、694年)に起工し金堂と丈六の釈迦像が造られ、22年後の和銅8年(715年)に三重塔が完成した」ということになろうか・・・

倭国浄美原宮治天下天皇とは壬申の英雄、天武天皇。東宮とはその皇太子草壁皇子のこと。草壁皇子は生来体が弱く、686年父の天武天皇崩御とともに即位することが出来ず、その3年後儚くなった。建立を発願した臣大嶋はその身近につかえていたものかと思われる。天武天皇の葬儀の際に兵政官の事を誄したり(「次直大肆藤原朝臣大嶋、誄兵政官事」日本書紀朱鳥元年)、持統天皇即位の際に神祇伯として寿詞を読んだり(「神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞」日本書紀持統4年)と、この皇子の父帝、母帝の身近にあったことを考えれば、妥当な考えであると言えよう。 しかし、その大嶋も程なく世を去る。その遺志を継ぎこの寺を完成させたのが、比賣朝臣額田である。

先に紹介した石位寺の如来三尊像が、額田王と大きくかかわりを持つものであるとする考えが生じた理由は、この比賣朝臣額田にある。この名を見ればあれこれ言う必要もないであろう。比賣は姫、となれば姫であるところの額田・・・そう、額田王の存在を連想させる。まあ、ちょいと厳密に考えれば、簡単にそうは言えないところもあることはお分かりだろうが・・・

なんてレクチャーを聞きながらかなり遅い昼食。

お腹が落ち着いた後はいよいよ出発だ。この山の向こうには阿騎野がある。標高は一番低い部分でも500mはある。今いる粟原寺跡が270m程であるから、あと200m強。ひと踏ん張りだ・・・

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・・・と・・・ここまで来て気になるのは、合ハイの相手である、京都の女子大のお嬢様達。以前述べたように彼女たちは京都の河原町や、大阪の梅田辺りを歩くにふさわしい身なりでこの一日旅行に臨んでいた・・・そして・・・

・・・列の先頭を見ると・・・これから歩くべき道を切り開くべく、我が師は両の手に鎌をかまえていた。