大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

初瀬・・・忍阪、そして阿騎野へ(5)

粟原寺跡から私たちが目指すのは阿騎野(アキノ)。お暇ならば、グーグルマップなんかでご確認いただきたいが、その二つの地点には道が記されていない。だから、今、もしこの二つの地点間の移動を考えるならば、粟原寺跡からいったん国道166号線に出て女寄峠を越えるしかない。

けれども、私たちは先日の記事で記したとおり、粟原寺跡の背後に聳える山々を越えた。地図上には普通記されない道だ。

けれどもそこには全く道が存在しないわけではない。というよりは、明治21年に女寄峠が改修されるまでは、この道こそが阿騎野に抜けるメインロードであった。半坂越えである。半坂越えは宇陀市大宇陀の半坂に至る道で、半坂では小峠(半坂峠)と呼ばれる小さな峠を越える。峠の標高は約440m。なかなかの難所である。道は急峻で細い。路面は整備されておらず、木の根や岩が露出していてとても歩きにくい。前を見れば、行く手を阻むかのように茂る下枝を、我らが師はその両の手に持った鎌で薙ぎ払い、その進路を確保してくださっていた。

このような悪路をなぜ我々は越えねばならなかったのか・・・理由は後述するとして、想像していただきたいのはこの徒歩旅行に京都の女子大から参加しておられた面々である。先にも述べたとおり、彼女たちは京都は河原町や大阪の難波、梅田あたりを闊歩するような身なりでこの徒歩旅行に参加していらっしゃったのだから、その足元はこのような悪路を歩くためのものではない。あるいはエナメルのハイヒール、あるいはその頃はやっていた革製のブーツ・・・

けれども、彼女たちは泣き言ひとつ言わず私たちについてきた。なかなか感心である。

なお日本書紀神武天皇の即位前紀戊午年九月の条に「女坂置女軍。男坂置男軍(女坂(めさか)に女軍を置き、男坂(おさか)に男軍を置く)」とあり、半坂峠はこのうちの男坂と考えられている。

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さて、かような労苦の末私たちは峠を越え、半坂の地にたどり着いた。半坂からはいくつかのささやかな流れや丘を越えて南に進む。そしてたどり着いたのが阿紀神社である。鳥居の脇にあるこの神社の由来書によると、この神社に残る古文書(この古文書がどういう性質の者かは不明)に当社が天照大神を祀る所以を次のように記しているらしい。

神武天皇は難波からの大和侵入をあきらめ、紀州熊野から大和に入ろうと試みた。そしていくつもの難所を越え宇陀の地まで進軍してきたとき、この地で御祖の神(=天照大神)を祭り、大和盆地に侵攻を試みたところ、日神の威勢がその後押しとなり、賊軍を打ち払うことができた。そのため、この地に天照大神を祭祀するようになった、というのである。この時の大和盆地への信仰の際に使われた経路が上記の男坂、女坂である。

ただ・・・この伝承が正しいかどうかは知らぬ。ただ、この地に天照大神が祀られるようになったのは、第11代・垂仁天皇の時代のことである(日本書紀)。それまで豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)に託して大和の笠縫(今の檜原神社か?)で祀っていた天照大神を、倭姫命に託して別の場所に祀ることになった。倭姫命は大神を鎮座する場所を探して先ず訪れたのが、宇陀の篠幡(ササハタ)だった。それが当地で、ここで大神を祀ったのが当社の始まりとされている。

しかしながら、天照大神はこの地がお好みにはならなかったと思われ、一行は引き返し、近江の国に入り、美濃を巡り、伊勢の国まで鎮座を探す旅を続けたとのこと。伊勢の国に来てはじめて、大神がこの国に居たいといったので、大神の言葉のままに祠を伊勢に建てたという。伊勢神宮(「神宮」とのみいうのが最も正しい名称らしい)がいかなる過程において今ある地位を確立したのか、その根源を語る説話の1つである。

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上が阿騎野であろうと思われる一帯である。いよいよ最終の目的地である。

軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて 短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ

万葉集巻一・45/49

実は私たちがこの日、あえて地図にも載らない急峻な峠道を越えたのは、上記長歌にある「初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を」を実感せんがためであった。軽皇子天武天皇持統天皇の孫、皇太子の地位にありながら皇位に着くことなく崩御した草壁皇子の御子である。

その軽皇子は690年頃の冬(おそらくは692年)、「太敷かす 都を置きて」、百官を引き連れて阿騎野の地に遊猟に出立した。「真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 」て一行は峠を越え、阿騎野にたどり着いた。時母や夕刻。遊猟は明日の早朝。「み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿り」を一行はしなければならない。

まだ10歳前後の皇子ではあったが、いずれは皇位を保障された身。返していえば、百官を率いなければならなくなる身である。たとえ幼少のみであろうと宮廷の恒例行事であった遊猟等を見事に統率しなければならない。そして・・・その力量を百官に示すための儀式がこの度の遊猟であった。この遊猟を見事に統率しきれば、皇子は血統・力量共に皇太子にふさわしい存在になることができるのだ。

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これは宇陀市大宇陀迫間にある万葉公園内にある歌碑。部分的に光っていて読みにくいが、上に紹介した長歌が原文で彫られてある。

そしてそのすぐそばには・・・これまた読みにくいな。

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皆さんご存知の

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

が彫られているのだ。

私たちは件の万葉集の研究会において上の「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」を訓む予定があった。それに先立って、秋の定例の徒歩旅行にはその地を訪ねてみようというのが、今回の趣旨であった。

得たところは少なくない。

たとえば、「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」の歌。私は中学校の頃からこの歌を知っては来ていたが、イメージとして、はるかかなたの地平線に昇る朝日、沈もうとする月を感じていた。けれども実際に阿騎野を訪れてみれば・・・

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写真のように、四方を山に囲まれた小盆地であった、しかもその盆地の中にいくつもの丘陵がある・・・。その地形からか推測できるのは、山から上り、山へと沈む日輪と月読であった。何もわざわざ行かなくとも地図を見れば大体のことは推定できるじゃないか・・・とおっしゃる方がおられるかもしれない。けれども・・・それは地図から多くの情報を読み取れる方の話。私のようなものにはとてもとても・・・それに仮に読み取れたにしろ、稜線の形、そこまでの距離感、見上げる角度の全てが読み取れるわけではない。

研究会において私が発表を担当していたのは

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ

の2首。大いに参考になった。

えっ・・・どのように参考になったかって・・・それはまたの機会に・・・。実はその時の発表において私には少々うれしいことがあった。これも、そのまたの機会に触れることとする・・・

などと、何時の事やらわからぬ約束をした。まさしく、何時果たされるのか極めて怪しい約束である。また、内容が万葉集の歌に関わるものゆえ、三友亭雑記にではなく、左サイドバーにお示ししている「万葉集僻読」にてお示しすることになるかもしれない。まあ、期待せずお待ちいただきたい。

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さて、私たちが半坂越えをしてからはや30数年。以前は殆ど整備のされていなかったこの土地も少々観光化が進み、整備された公園が出来てきた。最後の写真んはそんな公園にあった柿本人麻呂の騎上像である。なかなか凛々しい御姿である。

最後に・・・件の女子大生について報告しておく。彼女たちは最後まで無事に、愚痴1つ洩らすことなく歩きおおせた。足元を見れば、革製のブーツには縦横に傷が入り、エナメルの塗られたハイヒールはそのエナメルが剥げてしまい当初の美しい色彩はもはや戻りようはなかった。けれども・・・繰り返し言う。彼女たちは愚痴の1つ洩らすことはなかった。そして私たちは笑顔を持って別れた。

 

以後・・・彼女たちが私たちの徒歩旅行に参加することは・・・二度となかった。