大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

大安寺に行く

南都七大寺とは、奈良時代に、平城京及びにその周辺に存在して朝廷の保護を受けた7つの大寺を言う。興福寺東大寺西大寺薬師寺元興寺・大安寺・法隆寺の7つの大寺の総称である(法隆寺斑鳩に所在している。故に 法隆寺ではなく唐招提寺を七大寺の1つとする考えもある)。このうち興福寺東大寺薬師寺法隆寺はつとにこのブログで紹介済みで、先日やっとの事で残る元興寺も紹介できた。あとは西大寺と大安寺である。この2つの寺のうち、西大寺は大学に入って間もない頃訪れた経験があり(とはいえ、本当にかなり以前のことであり、このブログで紹介するには再踏査の必要がある故、ご紹介するのは今しばらくお待ちいただきたい)、私にとってまだ訪れたことのないのは大安寺のみとなっていた。

その大安寺に先日、やっとの事でお参りする機会が訪れた。

仕事で奈良市内に訪れたときのこと、午前中の訪問先の仕事が案外早く終わり、午後に行かなければならないところとの約束の時間にかなり余裕ができたのである。しかもその出張先は大安寺にほど近い場所・・・これはお参りに行かない手はない。

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平日の昼下がり、街はずれの・・・しかも、東大寺興福寺のように大量の国宝を擁し、豪壮な建築が立ち並ぶこともないささやかな古寺をおとなう人はまばらである。しかしながら、かつては南都七大寺に数えられていたこの名刹、その歴史と過去の繁栄はただならぬものがある。

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この寺の創建は古く聖徳太子の時代まで遡る。太子の開基になる熊凝(クマゴリ)精舎(現大和郡山市額安寺かという)がその前身と伝えられている。その熊凝精舎が、太子の意思を受けた田村皇子(後の舒明天皇)によって、舒明天皇11年(639)に百済川のほとりに建立に百済大寺として生まれ変わる。

百済大寺については、かつて北葛城郡広陵町にある百済寺が擬せられることもあったが、この寺と舒明天皇との関連は明確でなく、付近に天皇建立の寺院らしき寺跡の発見や古瓦の出土もなかったことから、その関係は疑われることも多かった。そんな中、1997年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は、桜井市の南西部にある吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されるとの見解を発表する。調査は2002年まで続けられ、その結果、吉備池廃寺は東に金堂、西に塔が建つ法隆寺式伽藍配置の寺院であったことが明らかになった。その規模に相当する寺院が記録に残るこの伝説の大寺以外に考えにくいこと、また発掘された古瓦の様式が時代的にこの寺の創建の時期と重なる事などがその根拠となる。その規模とは、金堂の基壇の東西が37m、南北が25m(南側の張り出しを入れると南北は28m)、塔もまた一辺32mの大規模な基壇を持つ(この基壇の規模からは九重の塔が推測される)という。何ともまあ壮大な伽藍ではないか・・・

この百済大寺が香具山の南、飛鳥京の北に移築され、大官大寺となる(最近はこれが別物であるとの説も力を持ちつつある)。その規模は、百済大寺と同等・・・あるいは上回るものであったと推測されているが、その大官大寺が平城遷都に従って平城京左京六条四坊に移築されたのがこの大安寺である(余談ではあるが、この二つの寺はほぼ同一の経線上にある)。

その正門にあたる南大門は六条大路に面し、寺域は六条大路の南側にも伸び、東西3町、南北5町に及ぶ広大なものであったという。伽藍配置の特色は、東西に七重塔が並び立ち、金堂から大きく離れ、南大門の外側に建つことであり、「大安寺式伽藍配置」と称されている。

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本堂及びその他の堂宇もいずれも近代の建立であって、創建当時の面影を偲ぶよすがはどこにもない。かろうじて残された9体の天平仏に往時の繁栄を偲ぶことが出来るのみである。通常は、この9体の内の7体(木造不空羂索観音立像・木造楊柳観音立像・木造聖観音立像・木造四天王立像)がコンクリート製の収蔵庫におさめてあるのを拝観できるのみであるが、私がお参りしたこの日はたまたまご本尊の木造十一面観音立像が特別開扉されている日で、私はこの幸運を逃すことなく、500円の特別拝観料を支払い、本堂に上がった(普段は無料)。本堂には私のほかに誰もおらず、静かに・・・静かに至福の時は私の前を通り過ぎた。ガン封じの御仏であるこのご本尊に手を合わせ安穏を願った後は、収蔵庫へ・・・7体の個性的な天平仏にお目にかかる。

そして境内を散策することしばし・・・下のような歌碑を見つける。

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彫りが浅いせいか、写真がまずいせいか、なんと彫ってあるのかよく分からない。おそらくは万葉歌の原文表記。裏に回って確認してみる。

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うつせみは数なき身なり 山川のさやけき見つつ道をたずねな

大伴家持万葉集巻二十

ご存知、大伴家持の作。「臥病悲無常欲修道作歌」(病に臥して無常を悲しび、道を修めんと欲して作る歌)と題詞にはある。道を修めるとは仏道を極めること・・・古来、部門の誉れ高い名門貴族、大伴家の嫡流である家持さんはどうもだいぶ気が弱っていたようだ。この歌の詠まれたのは天平勝宝8年6月7日。この年の2月、彼を庇護し、彼自身も頼りにしていた橘諸兄上皇聖武天皇)誹謗の責を負って官を退き、5月、同族の大伴古慈斐が天皇を誹謗したとして縛せられた。古慈斐は程なく釈放されたが、大伴家の衰退は日を追って明らかになって行く。宗家嫡男である家持にとっては辛く耐え難い日々であっただろう・・・

私は暫し、上古の貴公子の悲痛に思いを馳せる・・・そして傍らに目を向けると・・・

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そんなことはどうでもいいことだよ・・・とばかりに、その御顔さえもしかとは見えぬ仏様が微笑んでいた。

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