大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

八幡様と応神天皇・・・上

南都七大寺の一つ大安寺についてのレポートの後、その鎮護の社として大安寺の南に位置する大安寺八幡宮についてのレポートを皆さんにお読みいただいた。続いてその八幡様を訪れた際にふと生じた疑問について述べた「八幡様と鳩」という一文も2回にわたってお付き合いいただいた。誠に恐悦至極である。本来ならばここでこの一連の記事は終わり、他の題材に話題を移すはずであったが(事実、いくつかのネタは準備してある)、「八幡様と鳩」を書いているうちにさらに新たな疑問が生まれてしまった。次の2点である。

  • 本来は外来神である八幡様がなぜ応神天皇に擬せられているのか。
  • その八幡様がこの国にお姿を表したのは欽明天皇の御代であったがそれはなぜなのか。

という2点についてである。

上述のごとく、他のネタはいくつか準備してある。早くしないとアップする予定の写真と季節がずれてしまう恐れがあり(もうすでにずれてしまっているが)、早くそちらの方に話題を移したいのだが、なにぶん忘れっぽい性格ゆえ、今その疑問を追い求めないと、当の疑問自体がどこかに行ってしまう恐れがある。ここはひとつ、皆さんに我慢して一連のネタが続くことにお付き合いいただきたい。

まず一つ目、「本来は外来神である八幡様がなぜ応神天皇に擬せられているのか。」という疑問についてである。

国家鎮護の神である八幡様が、かつてこの国に君臨した天皇の御霊であるとの信仰自体はさして不自然は感じない。この神がこの国にお姿を現した欽明天皇の御代はまだ天皇=神という現人神思想が生じていない時代であったにしろ、人が神として崇められることは後世の天神様=菅原道真の例にある通りである。問題は八幡様に擬せられたのがなぜ「応神」天皇でなければならなかったのかということである。天神様が菅原道真でなければならない理由は皆さんがすでにご存じの通りである。ならばなぜ「応神」なのか?

欽明天皇は第29代。とすれば、それまでに28人の天皇がいたはずである。もちろん、この数字は後の世の古事記日本書紀に従っての数字であり、欽明天皇の御代の人々がそのように意識していたわけではないだろう。だいたいこの時代には天皇という称号自体が存在してはいなかった。しかしながら、それは欽明天皇以前に天皇に相当する人物が全くいなかったことを意味はしない。おそらくは彼らを大王(オオキミ)と呼んでもいいのだろうが、それは一人や二人では無かったはずだ。そして、応神天皇はその数多くの大王たちの一人である。その数多くの大王たちの中から、応神天皇一人の御霊がなぜ八幡様として信仰をあつめるようになったのか、以下いささかの愚考を展開してみたい。

今まで何度も述べたように八幡様は外来神である。748年(天平20)9月1日、八幡神は自ら

吾震旦乃霊神、今波日域鎮守乃大神

(宇佐託宣集 巻2、巻6)

と託宣し、その素性を明らかにしている。このぐらいのものなら私にだって訓読できそうなのでちょいと試みてみよう。

吾は震旦の霊神 今は日域の鎮守の大神なり

震旦とは古代インドで中国をさした語のチーナスターナ(サンスクリット)を仏典翻訳の際中国に逆輸入され漢訳された語。すなわち中国をさす。日域は日本のこと。「私は唐土において神であったが、今はこの日本の鎮守の神である。」ほどの意味であろう。そして豊前国風土記逸文に、

昔者新羅国神 自度到来 住此河原 昔新羅の神なり 自ら度りて到来し 此の河原に住む 河原とは香春(福岡県田川郡香春)のこと。香春は産銅の地、古くから精錬の地であり、東大寺大仏の建立に際してもこの地の銅が用いられたという。

上の託宣集の一文はそもそも八幡様の託宣であることから、容易にその守護が八幡様であることが知られようが、下の一文についてはその主語が定かではない。が、逵日出典氏はその著「八幡宮寺の成立史の研究」において八幡宮についてのあらゆる資料をし、詳細な分析を加えた上で

八幡神の源流は、新羅系渡来集団が香春に住み着き、彼らが奉ずる新羅国神をこの地に降臨させたことに求められる。その時期は四世紀後半から五世紀初めの頃と考えられよう。

と結論づけたのに私は強く説得力を感じる(上記のグーグルブックスにあったものをとばし読みにしただけなので偉そうにはいえないが・・・)。

さらにその新羅について唐土の史書を見てみよう。

辰韓 耆老自言秦之亡人 避苦役 適韓國 馬韓割東界地與之 (後漢書辰韓伝) 辰韓馬韓之東 其耆老傳世 自言古之亡人避秦役來適韓國 馬韓割其東界地與之 (三国志辰韓伝) 辰韓馬韓之東 自言秦之亡人避役入韓 韓割東界以居之 (晋書辰韓伝)

辰韓とは後の新羅のこと。馬韓は後の百済とほぼその領域が重なる。3つの文とも、いずれも「辰韓馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。」ほどの意味である。とすれば、託宣集に「吾は震旦の霊神」とあることもスムーズに了承できよう。

すなわち、かつて唐土にあった人々が苦役を逃れ朝鮮半島に移住し、さらにその一部の人々が海を渡り北九州は香春の地に移り住んだ。そしてその際に彼らが奉じていた神が八幡様の源流であったという理解が成立する。なお、この移住してきた人々が後の秦氏と深い関わりのあることは上掲「八幡宮寺の成立史の研究」に詳しいが、ここでは八幡様新羅より渡来の神であったことを明らかにすれば、今回は充分なので深入りはしない。

話を応神天皇に戻す。この天皇が実在かそうではなかったか諸説あり私にはそれぞれの考えの是非を云々する力はない(実在しなかったとは思っているが)。ただ古代人がその伝承と想像力の中で応神天皇という一人の大王像を造り出し、そこに一定の事跡を付与したことには、大いに興味を感じている。古事記に記されている応神天皇の事跡の中で対外関係に関わるものを以下に挙げる。

 

  1. 新羅人參渡來。是以建內宿禰命引率、爲役之堤池而、作百濟池。
  2. 百濟國主照古王、以牡馬壹疋、牝馬壹疋、付阿知吉師以貢上。此阿知吉師者、阿直史等之祖。亦貢上横刀及大鏡
  3. 科賜百濟國、若有賢人者貢上。故、受命以貢上人、名和邇吉師。卽論語十卷、千字文一卷、幷十一卷、付是人卽貢進。此和邇吉師者文首等祖。
  4. 貢上手人韓鍛、名卓素、亦呉服 西素二人也。
  5. 秦造之祖、漢直之祖、及知釀酒人、名仁番、亦名須須許理等參渡來也。故、是須須許理、釀大御酒以獻。於是天皇、宇羅宜是所獻之大御酒而、宇羅下三字以音。御歌曰、「須須許理賀 迦美斯美岐邇 和禮惠比邇祁理 許登那具志 惠具志爾 和禮惠比邇祁理」如此歌幸行時、以御杖打大坂連中之大石者、其石走避。故、諺曰堅石避醉人也。

1は土木技術、2は太刀と鏡(太刀は石上神宮蔵の七支刀、大鏡は七子鏡か?)、3は文字、4は鍛冶・機織りの技術、5は造酒技術の移入の技術に関しての記述である。一見して実に積極的に半島の技術をこの国に導入しているかがわかる。それはとりもなおさずこの天皇朝鮮半島と密接な関係を持っていたことを意味する。さらには、この天皇はその母神功皇后の胎中にて新羅に往き、そして帰国するやこの世に生をなしたと伝えられる人物である。

新羅渡来の神と、胎中にて新羅に征き、即位後は朝鮮半島と密接な関係を保ち積極的にその技術を導入した大王・・・大方の皆様は私の言わんとするところをうすうす勘づいているはずである。

・・・が、結論を出すのはまだ早い。応神天皇の出自に関わって古事記に1つ興味深い説話がある。次回はその説話を紹介してみたいと思う。