読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

八幡様と応神天皇・・・中

応神天皇の出自に関わって古事記に1つ興味深い説話がある。次回はその説話を紹介してみたいと思う。

と前回の記事を結んだ。であるから、今回は約束に従って以下にその説話の全容を示す。かなり長い引用にはなるがお付き合いいただきたい。もし、面倒くさいとおっしゃる方がおられたならば・・・引用のあとに簡単な説明を加えてあるのでそれを参照せられたい。

また、新羅國主の子有り。名を天之日矛(アメノヒボコ)と謂う。是の人參ゐ渡り來ぬ。參ゐ渡り來ぬゆゑえは、新羅國に一つの沼有り。名を阿具奴摩(アグヌマ)と謂う。此の沼の邊に、一(アル)賤しき女晝寢したり。是(ココ)に日の耀やき虹の如く、其の陰(ホト)の上を指しき。また一(アル)賤しき夫(ヲトコ)有り。其の狀(サマ)を異(アヤ)と思ひて、恒に其の女人の行ひを伺ひき。かれ、是に女人、其の晝寢せし時より、妊身(ハラ)みて、赤き玉を生す。しかして其の伺へる賤しき夫、その玉を乞ひ取りて、恒に裹(ツツ)みて腰に著く。此の人山谷の間に田を営(ツク)りき。かれ、耕人等の飮食(オシモノ)、一つの牛に負うはせて、山谷の中に入りて、其の國主の子、天之日矛に遇(タマサカ)に逢ひき。しかして其の人に問ひて曰く、「何ぞ汝、飮食を牛に負はせて山谷に入る。汝必(カナラ)ず是の牛を殺して食ふにあらむ。卽(スナハ)ち其の人を捕へて、獄囚に入れむとす。其の人答へて曰く、「吾牛を殺サムトにはあらず。唯だ田人の食(オシモノ)を送るのみ。然かれどもなほ赦(ユル)さざりき。しかして其の腰の玉を解きて、其の國主の子に幣(マヒ)す。かれ、其の賤しき夫を赦す。其の玉を將(モ)ち來て、床の邊に置く。卽ち美麗(ウル)はしき孃子(ヲトメ)に化りぬ。仍(ヨ)りて婚(マグハヒ)して嫡妻と為しき。しかして其に孃子、 常に種種の珍味を設けて、恒に其の夫(ヲ)に食はしめき。かれ其の國主の子、心奢りて妻を罵(ノ)るに、其の女人の言はく、「凡(スベ)て吾は、汝の妻と爲るべき女にあらず。吾が祖の國に行かむ。」。卽ち竊(ヒソ)かに小船に乘りて、逃遁(ニ)げ渡り來て、難波に留まる。此は難波の比賣碁曾(ヒメゴソ)の社に坐ます、謂阿加流比賣(アカルヒメ)の神なり。ここに天之日矛、其の妻、遁(ニ)げしことを聞き、乃(スナハ)ち追ひ渡り來て、難波に到らむとせし間に、其の渡りの神、塞(サ)へて入れざりき。かれ、更に還りて多遲摩(タジマ)の國に泊(ハ)てき。卽ち其の國に留まりて、多遲摩の俣尾(マタヲ)の女、名は前津見(サキツミ)を娶りて、子を生す。多遲摩母呂須玖(モロスク)。此の子、多遲摩斐泥(ヒネ)。此の子、多遲摩比那良岐(ヒナラキ)。此の子、多遲麻毛理(モリ)。次に多遲摩比多訶(ヒタカ)。次に淸日子(スガヒコ)。此の淸日子、當摩(タギマ)の咩斐(メヒ)を娶りて、子を生す。酢鹿之諸男(スガノモロヲ)。次に妹(イモ)菅竈上由良度美(スガクドユラドミ)。かれ、上に云へる多遲摩比多訶、其の姪、由良度美を娶りて、生せる子、葛城之高額比賣命。(此は息長帶比賣命の之御祖ぞ)。

古事記 応神天皇原文はこちら

かなり長くなったが、短くまとめれば次の通りである。

昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼のほとりである女が昼寝をした。するとその陰部に日の光が虹のように輝き当たった。女はたちまち娠んで、赤い玉を産む。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、新羅の国守の子であるアメノヒボコと出会った。ヒボコは、男が牛を殺して食べるつもりだと思い込み捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは聞かなかったので、しかたなく男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していたが、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波津の比売碁曾神社に逃げた。ヒボコは反省し、妻を追って日本に渡来する。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬に上陸し、そこで現地の娘・前津見と結婚した。

この話は日本書紀には垂仁天皇の條に記されており、内容が少しく異なっており、阿加流比賣(アカルヒメ)との婚姻関係については書かれていない。いきなりこの国にやってくる形で描かれている。ただし異説(一云)はあるものの、

昔有一人 乘艇而泊于但馬國 因問曰 汝何國人也 對曰 新羅王子 名曰 天日槍 則留于但馬 娶其國前津耳女一云、前津見。一云、太耳女、麻拕能烏。但馬諸助。是淸彦之祖父也。

日本書紀 垂仁天皇88年原文はこちら

と、但馬(多遲摩)國の前津耳を娶り、諸助(母呂須玖)をなす点においては一致している。

そして私がこの長い引用をしたゆえは、この一致した部分にある。すなわち、天之日矛の血統についての記述だ。古事記に絞ってその血統を確認してみると、

天之日矛と前津見の子が母呂須玖。

母呂須玖の子が斐泥。

斐泥の子が比那良岐。 比那良岐の子が毛理。比多訶。淸日子。 淸日子、當摩(タギマ)の咩斐(メヒ)の子が酢鹿之諸男(スガノモロヲ)。その妹が菅竈上由良度美(スガクドユラドミ)。 そして比多訶が姪の由良度美を娶って産んだ子が葛城之高額比賣(カヅラキノタカヌカノヒメ)命。(此は息長帶比賣命の之御祖ぞ)。

葛城之高額比賣命の子が息長帶比賣命・・・すなわち神功皇后である。

ということは、応神天皇の血統を遡って行けば、微かに・・・ほんの微かにではあるが、新羅王家の血流が注ぎ込んでいることになる。もちろんそれが事実であるかどうかの保証はどこにもない。第一、日本に文字が伝わったのは当の応神天皇の御代。それ以前のことは記録しようもないことである。すべては口承・・・しかもそれぞれの氏族が自分たちの都合のいいように、それぞれの伝承が作り上げられていったこと・・・前回の記事に対してのNoriさんのコメントにある通りである。多くの氏族が自らの出自を天皇家とつながりのあるものとしようと腐心していた。

けれども・・・おそらく伝承というものはまったく無の状態からは生じえない。ほんの芥子粒のような事実・・・そんな事実が伝承として成長していったものが、今我々が目にしうる伝承であると思う。しかもなおかつ、その伝承が古事記に採用されているということは太安万侶が・・・ひいては皇室(おそらくは天武天皇)がその伝承にお墨付きを与えたようなものである。とすれば、単なる伝承に過ぎない天之日矛伝説は正史として古代の民に受け入れられていたことになる。ここで大切なのは、それが史実として正確であるかどうかよりも、その時代の人々がどう信じ込んでいたか・・・なのである。

・・・などとエラそうな物言いをし、物々しすぎるほど長い引用を正当化しようとしているのが、今の私ではあるが・・・何もそれにふさわしい結論を持ち合わせているわけではない。ただ・・・これまで提示してきたいくつかの資料をつなぎ合わせるとどのようなことを想像しうるか・・・そのことを、あとは皆さんに委ねたいと思うのだ。

・・・皇子を孕んだまま新羅の国に征き、それを従え、さらには朝鮮半島の他の国々の服従を確認した神功皇后がかつて新羅の国から渡ってきたかの国の皇子、天之日矛の末裔であるということ。そしてその御子は応神天皇は、鎮懐石によって極度にその出産を遅れさせられた皇子であるということ・・・その妊娠期間のあまりの長さは、応神天皇が宿しこまれたのがこの国においてではなかったことを意味するとの説も一部にはある。そして、かなりの難儀の末、大和に入り、後に即位した応神天皇朝鮮半島と強いつながりを持っていたこと。そして、その応神天皇の御霊が半島から海を渡っていらしゃった八幡様であるということ・・・

全ては伝承である。しかしながらその伝承は当時の人々の多くに信じられていたはずの伝承である。応神天皇実在云々やその血統に関してはいろいろおっしゃる方もいるが、私がここで確認したい一事だけはこれまで示してきた資料によって、ある程度はうなずいていただけるのではなかろうか・・・それはなぜ八幡様として崇められるのが応神天皇でなければならないか、という点についてである。

あとは・・・お示しした資料に従って、皆さんでご自由にご想像いただきたい。


古事記の書き下しに置いては、原文をウェブ上でも確認しえた岩波の日本古典文学大系古事記」のものを採用したが、書き下しの際には新潮社日本古典集成「古事記」のものを大いに参照した。したがって記事中にお示しした訓読はどっちつかずの不徹底なものになってしまった。かような、不徹底が生じたのは、古事記の文字をこうやって打ち込むことは面倒なことなので、信頼できるものがあれば、てっとり早くウェブ上のもので済ませたいという怠惰な心と、学生の頃2年の間に渡ってその学恩を享受する僥倖に恵まれた西宮一民先生の新潮集成の訓読への信頼の結果である。お詫び申し上げる、としかいいようがない。・・・が、まあ私のようなものが言わんとすることにそんなに厳密さはいらない・・・と思ってお許しいただきたい。