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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

八幡様と応神天皇・・・下

「本来は外来神である八幡様がなぜ応神天皇に擬せられているのか。」という、私のまことに個人的な疑問について、2回にわたって愚案を提示した。提示したとは言っても、私が集めえた資料を提示し、あとは皆さんおご想像のお任せするという極めて無責任な記事であった。まことに退屈な、自己本位な駄文にお付き合いいただいた皆様には感謝、感謝である。そろそろ、そんな奇特な方々も閉口してきていることだろうと思うが、「上」「中」ときたのだから、最後の「下」を書いておかないとどうもおさまりが悪い。まことに申し訳なくは思っているが、もういっぺんだけ私のこの退屈な妄想にお付き合いいただきたいと思う。

さて、最後に残された私の妄想とは・・・応神天皇の御霊が八幡様としてこの国に現れたのが、なぜ欽明天皇の御代なのか・・・という事実についてである。

欽明天皇継体天皇の嫡子、母は仁賢天皇の皇女、武烈天皇の姉(あるいは妹)の手白香皇女(タシラカノヒメミコ)である。私がここで注目したいのがこの父君である継体天皇の存在である。というのは、この天皇、その即位に際して穏やかならざる経緯があるからだ。古事記日本書紀には、その先代の武烈天皇が後継を設けずして崩御したため、近江から応神天皇の5世の孫であるとして群臣の要請に従い即位したとあるが・・・

比較的詳しく描いてある日本書紀にしたがって大雑把にそのいきさつを紹介すれば、

男大迹王(後の継体天皇)は近江国高嶋郷三尾野の生まれ。幼い時に父を亡くし、母の故郷である越前国高向(タカムク)で育てられる。成長し越前(近江とする説もある)を統治していた。時に武烈天皇が後嗣定めずして崩御。朝廷の重臣、大伴金村(オホトモノカナムラ)・物部麁鹿火(モノノベノアラカヒ)・、巨勢男人(コセノヲヒト)らが協議し、まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫m倭彦(ヤマトヒコ)王を皇位につけようとしたが、迎えの兵士をみて恐れをなし、王は山中に隠れて行方不明となる。しかたなく、越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王はにわかには信じられなかったが、手段を尽くし大連大臣らの本意を確かめ、即位を決心。507年、河内国樟葉(クスバ)宮において即位、武烈天皇の姉(妹との説もある)手白香皇女を皇后とした。

以降、継体天皇は511年筒城(ツツキ)宮(京都府田辺市)ー518年弟国(オトクニ)宮(京都府長岡京市)とめまぐるしく遷都を繰り返し、19年後、やっとのことで大和に入る。526年磐余玉穂(イワレタマホ)宮(奈良県桜井市)への遷都がそれである。つまり、大伴金村物部麁鹿火の推挙を受け皇位に着いた継体天皇ではあったが、すんなり大和へと入ることが出来なかったことを考えると、他の豪族たちには必ずしも歓迎された天皇ではなかったようだ。

さらに・・・である。この継体天皇崩御後の皇位の継承についても、少々の疑わしさが指摘されている。

継体天皇(507~531) 安閑天皇(531~535) 宣化天皇(535~539) 欽明天皇(539~571)

かっこの中は「?」付きではあるが、日本書紀に示されている年号を西暦に直したものである。一見何気ないような皇位の継承ではあるが、実は余りスムーズな流れとは言えない皇位の継承なのである。

上に述べたように、継体天皇が皇后である手白髪皇女との間に生した嫡子は欽明天皇である。継体天皇の即位3年目の509年の誕生であるから、その父の崩御の年には22歳。即位するに何の不自由のない年齢である。けれども・・・欽明天皇が即位する539年までの8年間にわたって皇位にあったのは安閑・宣化の2人である。この2人は継体天皇皇位につくまでに尾張目子媛(オワリノメノコヒメ)との間に生した子である。

さて、現在の常識からすれば、どちらに皇位が流れるのが自然であろうか・・・嫡子相続が一般的ではなかった時代であると推定されてはいるが・・・あえて妄言を弄すれば、若狭から出てきた継体天皇が唯一大和の勢力との接点であるのが、皇后手白髪皇女である事を考えると、その皇女との嫡子を差し置いて、即位以前に尾張氏の女と為した子を皇位につけることを、大和の豪族たちが素直に承服したとは考え難い。507年に即位した継体天皇が大和の地に都を構えるまでに19年の歳月を数えたことは、そこに大和の勢力の抵抗があったことを想像させるが、そんな勢力を妥協させる唯一の根拠が手白髪皇女との間に生した皇子を次の皇位につけることであったと想像してもさして無理はないからだ。

しかるに、継体天皇崩御の後、皇位についたのは尾張目子媛の生した安閑天皇である。この皇位継承にかつての抵抗勢力は・・・

ここに安閑・宣化朝と欽明朝の二朝並立という事態(あくまでも仮説上の学説であるが)に相成る。日本書紀はによれば、継体天皇崩御の年次について、百済本記(現存しない百済の史書)の説を採用して531年としているが、異説として534年とする説も載せている。この年は安閑天皇が即位した年とされ、継体天皇崩御後に2年間の空位があったことを意味する。ところが、そこにはいくつかの疑問点が有るというのだ。

  1. 日本書紀が引用するところの百済本記の531年(辛亥の年)の記事は「日本天皇及太子皇子、倶崩薨(日本の天皇及び太子皇子 倶に崩薨す)」 とあることだ。531年は継体天皇崩御の年ではあるが、その際に皇太子と幾人かの皇子も死んだというのだ。これは尋常なことではない。
  2. 欽明天皇の即位した年が531年とする史書(上宮聖徳法王帝説・元興寺伽藍縁起)があり、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解されること。
  3. 古事記では継体天皇崩御が527年になっていること。

こうした矛盾を解釈する方法として、二朝並立やその状態を解消させるための内乱が存在存在したとの考えが浮上してくる。そして、その事実を隠ぺいするために、日本書紀においてはその皇位の流れを継体ー安閑ー宣化ー欽明としたのだという。その詳細を述べることは、ここの目的ではないので避けたいが、そこに反論もあることも、ここで紹介しておかねばならないだろう。

百済本記は現存しておらず、記述に関する検証が困難であるということ。同書が百済の史書であるため、日本関係の記事を全面的に信用することに疑問があるとの見方だ。そもそも531年に天皇崩御したのが事実であるとしても、それが誰を指すのか明確ではない。このため、「二朝並立」や内乱のような事態は発生せず、この時期の皇位継承については継体の崩御後にその後継者(安閑・宣化)が短期間(数年間)で崩御して結果的に継体ー安閑ー宣化ー欽明という流れになったとする『日本書紀』の記述を採用すべきであるという見方である。

後者の考えが有力だとは聞いている。おそらくはそれが正しいのであろう。現存しない異国の史書を、日本書紀にある引用の一文のみから信じることは簡単にはできない。しかしながら、継体天皇崩御に関わって記事に、日本書紀の編者があえて百済本記の記事を異説として挿入したのは、この継体朝から欽明朝にかけて、この国に何らかの不安定な状況が発生したことを意識してのことであろううことは想像に難くない。

まさに内憂外患である。そんな時代の不安に応えての571年の八幡様の顕現である。

ここでさらにもう一つ・・・継体天皇が擁立された根拠を思い出してほしい。

越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王はにわかには信じられなかったが、手段を尽くし大連大臣らの本意を確かめ、即位を決心。507年、河内国樟葉(クスバ)宮において即位、武烈天皇の姉(妹との説もある)手白香皇女を皇后とした。

というのが、その即位のいきさつだった。「応神天皇の5世の孫」がその根拠だ。「5世の孫」・・・これが、果たして信じうる根拠になるだろうか・・・?。少なくとも古事記日本書紀においては継体天皇から応神天皇に遡る系譜が明らかにされていない。かろうじて鎌倉時代の日本書紀の注釈書、釈日本紀が引用するところの上宮記に記された異伝(これまたかなり複雑な操作が必要そうだ)から、その血統を微かながらに辿りうるに過ぎない。

よって、ここに天皇家に血統の断絶を感じ、王朝の交替説を唱える人々も少なくない。若狭あるいは近江の勢力(おそらくは日本海を通じて半島と繋がっていたであろう)が、武力を行使して大和に入り、それまでの王族と入れ替わったとする考えである。そして、その王統の正当性の担保として全王朝の手白髪皇女を皇后としたとするのである。

この交替説にはそこに武力の行使は伴わない平和的な権力の簒奪があったとする説もあるが、いずれにしろ、この説によるならば神武天皇以降の万世一系の皇国史観は崩壊する。ある意味では戦後に唱えられ始めたこの学説は、戦前の支配に対するアンチテーゼとして生じたものかもしれないが、「応神天皇の5世の孫」などという少々胡散臭さの感じられることが皇位継承の根拠となるのならば、ついつい信じてみたくもなってしまう。が、現在の歴史学の水準からすれば、継体が応神の5世孫であるという点の真偽はさておき、彼が王権を簒奪した訳ではなく、王権中枢の豪族の支持を得て即位したとするのが一般的な考え方らしい。

ところで、5代目の孫というのが一つの正当性を担保する根拠となるというのならば・・・実はこの応神天皇の母神功皇后も、実は開化天皇から数えて5代目に当たる王族の傍系氏族の娘である。そうそう、神武天皇天照大御神から見て5代目になる。

まあ、実のところこの問題に深入りすることも実は私の本意ではない。今回の本題は「なぜ、応神天皇の御霊が八幡様としてこの国に現れたのが、欽明天皇の御代なのか・・・という事実について」であった。これからがいよいよ本題ということになるのだが、ここまでの記述を読んでいただいているならば、もうそんなに多くの言葉は必要とされないであろう。

継体天皇欽明天皇の在世期間中は内憂外患の困難な時代であった。とくに562年の伽耶任那)の日本府が滅亡は、さぞかし当時の支配層のパワーバランスに作用したことであろう。そんな微妙な時代に、自らの祖先の御霊が神としてこの国に顕現したという事実は、欽明天皇にとってさぞかし心強い事実であったことだろう。加えて以降この国の大王はこの欽明天皇の血統から排出されるようになって行ったわけであるが、この祖先神はこれらの王族の守り神としても存在しうる。

仮に・・・この八幡様の顕現が、大王家との結びつきを強化しようとの八幡様を奉ずる氏族の意図が働いていたところのものにしろ、大王家がそれを受け入れるだけの状況がなければならない。その状況が・・・今回お示しした内容である。八幡様はこうして皇祖神としてこの国の守護神に相成ったのである。