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大和逍遥   

別に運営している「三友亭雑記」というブログのバックアップである。

談山神社で紅葉を見る

数回にわたって個人的な妄想におつきあいいただいた。文字ばかりの非論理的な文章に根気よくおつきあいいただいた。おまけにともすれば飛躍しがちな我が妄想に歯止めをかけるべく、適切なご教示もいただくことができ、ブロガー冥利に尽きる思いである。ということで今回は、そんな皆様に感謝の意を表すべく、今その全盛の大和の紅葉の様子を紹介したいと思う。

若い頃には何の興味も抱かなかったこの季節の彩りが、齢を重ねるにつれて妙に思いを惹かれてならない。例年この季節になると週末のわずかな時間を利用しては、あちらこちらの紅葉を楽しみに出かけているのであるが、今日紹介するのは我が桜井市の代表的な紅葉スポットである談山神社である。出かけたのは前の週末。11月の10日だったかと思う。全盛には少々早めで、まだこれからという時期であったが、それでも充分にその彩りを楽しんでいただくことは可能かと思う。

談山(タンザン)神社は、奈良県桜井市多武峰(トウノミネ)に鎮座する神社で祭神中臣鎌足である。神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺と言った。藤原氏の祖、中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678)、長男の僧、定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威からこの地に移し、十三重塔を造立したのがそのはじめと言われている。天武天皇9年(680)に講堂(現在の拝殿)が創建され、妙楽寺と号するようになった。談山の名の由来は、中臣鎌足中大兄皇子が、大化元年(645)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い(カタライ)山」と呼んだことによるとされるが・・・私はそれは後付けの理屈で、本当のところは現在「トウノミネ」と呼んでいる「多武峰」の「多武」を「タム」と訓んでいたことに由来するのではないかと思っている。

ふさ手折り 多武(タム)の山霧 繁みかも 細川の瀬に 波騒きける (九・1704)

・・・とまあ、講釈はここまでにしておいて、そろそろ歩き始めようかと思う。

まずは参道

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ごらんのように数多くの灯籠が並んでいるが、中でも出色はこの灯籠であろう。

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よく見ると竿の部分に奉納された年が記されている。

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かなり摩耗しているが元徳三年(1331)と読むことができる。後醍醐天皇の寄進によるものであるが、この年後醍醐天皇元号を元弘と改め、鎌倉幕府の討幕運動を開始したことを考え合わせれば、この灯籠に込められた後醍醐天皇の思いにはさぞかし複雑な思いがあったのであろうと想像できる。この灯籠のから、2~3mほど進んだところに本殿へと昇る石段だ。

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ご覧の通りかなりきつい傾斜であるが、多武峰の南向きの斜面に位置するこの神社の立地からして致し方のないことであろう。少々しんどそうではあるが、決意をしてその石段を登り始める。

・・・と、本来ならばそのまままっすぐその頂まで登り詰め、本殿に鎮座する大職冠鎌足公にお会いするべきであろうが、この石段には途中に数カ所横道にそれる部分がある。

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写真は石段中程の左手にある踊り場のような広場にある歌碑である。民俗学者でもあり歌人でもある折口信夫釈迢空)の作が刻まれた金属板が、大きな岩に貼り付けてある。

1首目の「古き社のしづまれる山」がこの多武峰を指すのであろう。2首目「常世の木の實」とは、境内に植えてある、 鎌足の子定慧が唐の国より持ち帰られた霊木「菴羅樹(アンラジュ)」を指すのであろうが、石段の両脇にそびえる杉の巨木を見ると、5句目の「古木となれり」は、こちらを指すのではないかとさえ思われてくる。

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さらに石段を右に外れる。その先に張るのがご覧の通りのかわいらしいお社。摂社東殿(恋神社)である。

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恋神社の名の由来は祭られている鏡女王(カガミノオオキミ)が、万葉集に情熱的な恋の歌を残した歌人であること、女王が藤原鎌足の妻であり、不比等の生母と伝えられ、女性として幸せな一生を送ったと思われることに由来するそうである。

ということで、今のところ恋愛とは縁のなさそうな息子たちの良縁を願って手を合わせる。

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いつもなら、石段をまっすぐ登り、横道にそれることがなかったので、こんな光景を見ることができるとは思っていなかったのだが、今回初めて摂社東殿にお参りをし、こんな場所の存在に気がついた。拝殿の下の柱である。

さていよいよ本殿にお参りだ。

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本殿前の神の庭には普段足を踏み入れることはできない。向かって右側にある拝殿から本殿を拝することになる。

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ここが寺院であった頃聖霊院だった建物で、大織冠社、多武峰社とも称したこの本殿は三間社隅木入春日造、絢爛豪華という語で形容するにふさわしい極彩色模様や、花鳥などの彫刻によって装飾されている。大宝元年(701)の創建であるが、現存のものは嘉永3年(1850)建立のものである。その前にあった本殿は日光東照宮造営の際の手本となったことでも有名である。

そうそう・・・この山には不思議な伝承がある。これは学生の頃、先日の私のブログでお名前を紹介した西宮一民先生からお聞きした話だが、御破裂山には鎌足の遺骨を改葬したものと伝える円墳があり、国家に異変があるときはこの円墳が大きな音をたてて動き、聖霊院(現在の本殿)に祀られる鎌足像が破裂するのだそうな。実際に昌泰元年(898)に初めて破裂し、以降35回。破裂といってもひびが入る程度であるが、その度ごとに、都からは使者が送られて祈願の儀式が行われたという。この話は江戸時代に書かれた多武峯大織冠尊像御破裂目録(談山神社文書)にのっている話であるが、実は西宮先生はこの談山神社の社家の出身だ。こんな話を小さいころから聞き覚えしていたものなのであろうと思う。

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写真はその本殿に飾られているもので、なかなか立派なものである。

さて鎌足公へのお参りが済んだ後は、この神社の前身の妙楽寺の始原とも言うべき十三重塔である。

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談山神社のシンボルとも言うべきこの塔は上述の通り、鎌足公の子、定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威からこの地に移し、十三重塔として祀ったものであるが、現存のものは享禄5年 (1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものだ。唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられるこの塔の高さは約17m。屋根は檜皮葺、神仏混淆時代の名残である。

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十三重塔の西隣に位置する芸術・芸能の神、マダラ神が祀られている権殿の裏手にまわると、ご覧のような小さな滝とかわいらしいお社。瀧は大和川の源流の一つ。その上の小さな社が龍神社、飛鳥時代にこの国に流入した龍神信仰と、この国の水神(高龗神 タカオカミノカミ)とが習合され、龍神社と呼ばれるようになったという。

さて、本殿や十三重塔、権殿より一段低いところにひらけた広場がけまりの庭、鎌足公が飛鳥法興寺において中大兄皇子と初めてまみえ、大化改新の発端となった故事にちなんで、毎年の4月29日・11月3日にけまり祭りが行われている。

このけまりの庭の西に鎮座するのが総社本殿。

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日本最古の総社と言われている。総社とは特定地域内の神社の祭神を集めて祀った神社のこと。この談山神社総社は926年に勧請され、現存の社殿は1668年のものである。1742年に本殿をこの場所に移築した物で、三間社春日造となっている。

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神廟拝所の向かい側に位置するこの拝殿は、1668年の建築。談山神社の拝殿を簡略化した様式。内部には狩野永納の壁画が残っている。色褪せてはいるが、装飾の蹟が残る華やかな社殿であったこと、その装飾の後から推察できる。

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ここは談山神社参拝の目玉と言ってもよい。定慧が天武天皇8年(679)、父鎌足公供養のため創建した妙楽寺の講堂で、現在のものは1668年に再建されたものである。 ここは内部が公開されており、その中心に祀られているのがこれだ。

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もうちょいアップしてみよう。

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少々おどろおどろしい雰囲気はあるが、改新の英雄の面影を充分に感得できる木造である。江戸初期の作で、明治初年の廃仏毀釈の際になった飛鳥の藤原寺より移された。そんな鎌足公の手前には狛犬さんが一組。

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もともと境内の西端に鎮座する比叡神社前にあったもので、長年風雨にさらされたせいかかなり摩耗が進んでいる。江戸時代のものだそうであるが、詳しい歳月はわからない。

そして右隣には2組の狛犬さん。

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奥のかわいらしいやつについては、段の上に上がって確認するわけにもいかないので、その詳細を確認することはできなかったが、手前の立派なやつは伝運慶作だという。となれば鎌倉時代のものか?

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玉眼彩色、きらびやかであった制作当時の様子がしのばれる。

最後に、今回の談山神社参拝の目的であった紅葉の様子を一つ。談山神社の前の道を東に少し行ったところに目のくらみそうな坂道がある。その左手に広がる空き地からこの神社の全容を見渡したものがこれだ。

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先にも述べたように、紅葉には少し早かったが、充分に賞翫するに値する景色である。これがもし紅葉の全盛ならましかば・・・とは思うが、まあ、今回はこれで良しとしておく。